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最上家信(もがみいえのぶ)

 慶長十年(1605)~寛永八年(1631) 最上家13代当主。最上家親の嫡男。父の急死により13歳で家督を継ぐ。年若く、国政を執るには力不足だったため、家臣団の間では叔父の山野辺光茂(義忠)を擁立する動きが広がり、最上家中は家信擁護派と光茂擁立派に分かれ騒動となった。幕府が介入して取り成しを図ったが、重臣達はこれを受け入れず、国の仕置きができないとして改易された。改易後、名を義俊(よしとし)に改めた。
2017.01.22:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上義定(もがみよしさだ)

 生年不明~永正十七年(1520) 最上家9代当主。永正元年(1504)父・最上義淳の死により家督を相続、山形城主となる。一時は寒河江を支配下におくなど、最上郡(現村山郡)に強い影響力を示していた。ところが、永正十一年(1514)突如、置賜郡の伊達稙宗に攻め込まれ、長谷堂にて合戦に及ぶも、多くの一族重臣を失う大敗を喫してしまう。このとき義定は北部方面に出陣中であり、長谷堂到着の遅れが敗北の原因ともいわれている。この後、稙宗の妹を正室として迎え和議を結ぶが、最上家は伊達家の影響を強く受けることとなった。伊達夫人との間に子が無いまま亡くなったため、弟・中野義建の孫である義守がわずか2歳でその跡を継いだ。
2017.01.15:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上義淳(もがみよしあつ)

 生年不明~永正元年(1504) 最上家8代当主。最上満氏の嫡男。明応三年(1494)父の死去に伴い家督を相続、山形城主となる。父と同じく中野と山形の両方を領していたと伝わる。山形から遠く離れた尾花沢の龍昌寺(尾花沢市上町)に葬られたといい、この経緯は不明である。中野の龍壮寺に葬られたとの説もある。
2017.01.14:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上満氏(もがみみつうじ)

 生年不明~明応三年(1494) 最上家7代当主。最上家3代当主・最上満直の二男である中野満基の子。文明十二年(1480)従兄弟である最上義秋が跡継ぎのないまま死去したため、最上家の家督を継いで山形城主となる。山形城主となったのちも中野と山形の両方を領していたと伝わる。菩提寺は不詳。中野の国成寺(または国盛寺)に葬ったと伝わるが、この寺は現存していない。
2017.01.12:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上義秋(もがみよしあき)

 生年不明~文明十二年(1480) 最上家6代当主。最上満家の三男。文明六年(1474)兄・最上義春の死去に伴い家督を相続、山形城主となる。義春の菩提寺として龍門寺(山形市北山形)を創建した。跡継ぎの男子が無いまま死去。自身の菩提寺は松岩寺(山形市錦町)である。
2017.01.11:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上義春(もがみよしはる)

 生年不明~文明六年(1474) 最上家5代当主。最上満家の二男。嘉吉三年(1443)父の死去に伴い家督を相続、山形城主となる。このとき兄の最上頼宗は既に亡くなっていたとされる。はじめ政家と名乗ったが、将軍足利義政から「義」の字を賜り義春と改めた。義政の命により古河公方足利成氏攻めに参加している。旱魃に苦しむ領民のため、雨の神である諏訪明神(山形市諏訪町)を勧請したという。菩提寺は龍門寺(山形市北山形)である。
2017.01.09:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上頼宗(もがみよりむね)

 生年不明~嘉吉元年(1441) 最上満家の嫡男であるが、最上家の歴代当主には数えられていない。応永三十一年(1424)に家督を相続したとの説もある。父・満家が長瀞城に隠棲している間、山形城主を務めた可能性もある。光姫という美しい娘がおり、自分のために男が処刑されたのを悲しみ観音巡礼の旅に出たという。これが最上三十三観音の始まりになったという伝説がある。光姫の子が最上義春で若松観音にちなんで若松君と呼ばれたという話も伝わる。
2017.01.07:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上満家(もがみみついえ)

 生年不明~嘉吉三年(1443)? 最上家4代当主。最上満直の嫡男。父から家督を譲られ山形城主となる。正室は寒河江氏の娘という。のちに山形城を去って長瀞城(東根市長瀞)に隠棲した。菩提寺は長瀞の禅会寺。没年については応永三十二年(1425)説もある。
2017.01.06:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]