HOME >  ◇最上家家臣団(た行)

武久昌勝(たけひさまさかつ)

 元亀三年(1572)?~承応三年(1655) 庄兵衛。近江国の生まれ。父・弥次郎は六角義賢に仕えていたが、織田信長との戦いで討死。まだ幼かった昌勝は、縁を頼って出羽に来て、やがて最上義光に5百石で仕えるようになった。大坂の陣では、江戸城留守居役であった最上家親から派遣されて参陣、その際の戦功により5百石を加増され、合計1千石となった。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えたのち、小浜藩酒井家に仕えた。現在、国宝に指定されている「伴大納言絵巻」は、最上家より昌勝が賜ったものといわれており、現在は出光美術館に所蔵されている。
2017.07.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋伊賀守(たかはしいがのかみ)

 生年不明~正保元年(1644) 亀ケ崎城代・川北三奉行の一人。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えた。屋敷のあったところは酒田町代官所(のち酒田町奉行所)となった。(酒田市本町)
2017.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

寺内近江守(てらうちおうみのかみ)

 生年不明~没年不明 元和二年頃、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人であった安部越中守の後任となった。以降、最上家改易まで川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となる。屋敷のあったところは近江町と呼ばれた。(酒田市旧近江町)
2017.07.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

富並親直(とみなみちかなお)

 生年不明~没年不明 日野光久の三男。彦市郎。富並城(村山市富並)の城主3千石。谷柏相模守光直の娘を娶り富並の地に入ったという。最上家改易により浪人となり、伊達郡桑折にて死去。
2017.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

鳥海信道(とりのうみのぶみち)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光夫人の侍女・花輪と恋仲になり、これに怒った義光から死罪を申し渡されるが、鮭延秀綱の取り成しにより事無きを得、晴れて夫婦となった。このことに恩義を感じていた信道は、慶長出羽合戦では秀綱のもとで出陣、秀綱の身を守り討死した。妻の花輪も夫の葬儀を済ませると自害したという。このことを聞いた義光は、自らを恥じ入り、二人を丁重に弔ったと伝わる。
2017.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡信義(たておかのぶよし)

 生年不明~没年不明 寺内遠江守(寺内近江守?)の嫡男。小十郎。楯岡満廣の嫡男である親茂が、その伯父・楯岡(本城)満茂の養子となったため、満廣の養子となってその跡を継いだ。後に親茂が急死してしまったことを受け、信義の三男・満旨が本城家の跡を継ぐこととなった。
2017.03.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡親茂(たておかちかしげ)

 生年不明~没年不明 楯岡満廣の嫡男。伯父である楯岡満茂の三女を娶り、満茂の養子となる。最上家の改易に際しては、一族ともに前橋藩酒井家に移る。後に満茂の跡を継ぐが急死してしまい、隠居していた満茂が当主に復帰した。
2017.03.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡満廣(たておかみつひろ)

 生年不明~寛文三年(1663) 楯岡満茂の弟。長門守。関ヶ原の戦い後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市矢島町)3千石を与えられた。最上家改易により、兄弟ともに前橋藩酒井家に預けられた。
2017.03.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]