HOME >  ◇最上家家臣団(た行)

富並親直(とみなみちかなお)

 生年不明~没年不明 日野光久の三男。彦市郎。富並城(村山市富並)の城主3千石。谷柏相模守光直の娘を娶り富並の地に入ったという。最上家改易により浪人となり、伊達郡桑折にて死去。
2017.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

鳥海信道(とりのうみのぶみち)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光夫人の侍女・花輪と恋仲になり、これに怒った義光から死罪を申し渡されるが、鮭延秀綱の取り成しにより事無きを得、晴れて夫婦となった。このことに恩義を感じていた信道は、慶長出羽合戦では秀綱のもとで出陣、秀綱の身を守り討死した。妻の花輪も夫の葬儀を済ませると自害したという。このことを聞いた義光は、自らを恥じ入り、二人を丁重に弔ったと伝わる。
2017.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡信義(たておかのぶよし)

 生年不明~没年不明 寺内遠江守(寺内近江守?)の嫡男。小十郎。楯岡満廣の嫡男である親茂が、その伯父・楯岡(本城)満茂の養子となったため、満廣の養子となってその跡を継いだ。後に親茂が急死してしまったことを受け、信義の三男・満旨が本城家の跡を継ぐこととなった。
2017.03.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡親茂(たておかちかしげ)

 生年不明~没年不明 楯岡満廣の嫡男。伯父である楯岡満茂の三女を娶り、満茂の養子となる。最上家の改易に際しては、一族ともに前橋藩酒井家に移る。後に満茂の跡を継ぐが急死してしまい、隠居していた満茂が当主に復帰した。
2017.03.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡満廣(たておかみつひろ)

 生年不明~寛文三年(1663) 楯岡満茂の弟。長門守。関ヶ原の戦い後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市矢島町)3千石を与えられた。最上家改易により、兄弟ともに前橋藩酒井家に預けられた。
2017.03.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

楯岡満信(たておかみつのぶ)

 生年不明~没年不明 楯岡満茂の嫡男という。播磨守を称す。のちに満茂は、甥の親茂を跡継ぎとすべく養子に迎えていることから、若くして亡くなったものと思われる。満信のほか満茂の子は、大山筑前守光因妻・香林院、大山内膳正光隆妻・於陳女郎、楯岡親茂妻・源高院の3姉妹である。
2017.03.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋勘解由(たかはしかげゆ)

 生年不明~没年不明 高橋但馬守の子。最上家改易後、新庄藩戸澤家に仕え、谷地の代官を務めた。妻は最上家家臣の草刈虎之助の娘。
2016.12.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋但馬守(たかはしたじまのかみ)

 生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。もとは越前の朝倉氏に仕え、その滅亡後に最上家に仕えたという。一説には、高橋但馬守の娘が最上義光の嫡男・最上義康に嫁いだといわれている。生まれた子のうち、二男が義康の死後も生き延びて高橋姓を名乗り、後に帰農したという。
2016.12.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]