HOME >  ◇最上家家臣団(た行)

高橋英国(たかはしひでくに)

 生年不明~没年不明 弾之助。鮭延秀綱の家臣。最上義光が野辺沢満延の勇力を試すために選んだ大力の持ち主七人のうちの筆頭。身の丈七尺の大男。そのため身に合う武具が無く、いつも素肌のままで戦っていた。太っていたこともあり裸豕之助(はだかぶたのすけ)と呼ばれていたのを、義光が「武太之助」に改めさせたという。のちに鮭延家を離れて浪人となり、雄勝郡寺沢の土民たちに助力を請われた戦にて討死したという。
2018.07.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

遠山外記(とおやまげき)

 生年不明~没年不明 最上義光により天童城が落城すると、天童八楯の一員であった長瀞氏に代わって長瀞城(東根市長瀞)に派遣され、郡代を務めたいう。天正年間、野辺沢城主・野辺沢満延の家臣であり、尾花沢郡代の荒楯十郎と争い、十郎の居城・荒楯(尾花沢市尾花沢荒楯)を攻め落とすが、逆に満延に攻められ滅亡したという。
2018.06.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

土肥半左衛門(どいはんざえもん)

 生年不明~没年不明 土肥道近の子。父に従い最上家に仕える。最上義康襲撃事件の実行犯とされる土肥半左衛門(越中土肥氏)とは別人。のちに讒言のため君命により切腹したという。一説には、最上家親が弟の清水義親を討とうとしていることを内通して義親を清水城に逃がしたといい、清水城が落城した際に義親と共に命を落としたという。
2018.05.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

土肥道近(どいみちちか)

 生年不明~没年不明 秋田仙北の増田城(横手市増田町)の城主。はじめ小野寺家に仕える。文禄四年(1595)楯岡満茂が湯沢城(湯沢市古館山)を攻略した後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、西軍に加担した小野寺家を攻めるにあたり案内を務めたという。
2018.05.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

栃屋半右衛門(とちやはんえもん)

 生年不明~没年不明 越中土肥氏の家臣。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れ、福井藩松平家に仕えた。
2018.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

土肥半左衛門(どいはんざえもん)

 生年不明~元和二年(1616) 越中弓庄城の城主であった土肥政繁の子。姉婿が下吉忠であることから、慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、下家の一党として最上家に仕えた。最上義康襲撃事件の実行犯の一人とされる。下次右衛門が横死すると下家を取り仕切るようになるが、これを妬んだ同輩の原頼秀に、越中以来の譜代の家臣達を集め謀反の兆しありと讒訴されたという。これを真に受けた最上家親から寒河江への所替を命ぜられ、その途中の倉津(天童市蔵増)にて家親の手勢に襲撃され自刃した。これにより下長門守、有沢釆女などの下一族が最上家を退去した。
2018.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋勘解由(たかはしかげゆ)

 生年不明~没年不明 高橋但馬守の子。最上家改易後、新庄藩戸澤家に仕え、谷地の代官を務めた。妻は最上家家臣の草刈虎之助の娘。
2018.03.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋但馬守(たかはしたじまのかみ)

 生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。もとは越前の朝倉氏に仕え、その滅亡後に最上家に仕えたという。一説には、高橋但馬守の娘が最上義光の嫡男・最上義康に嫁いだといわれている。生まれた子のうち、二男が義康の死後も生き延びて高橋姓を名乗り、後に帰農したという。
2018.03.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]