HOME >  ◇最上家家臣団(た行)

角沢伊勢守(つのざわいせのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 最上義光の三男・清水光氏の傅役。光氏が清水家に養子に入った際に同行し、清水家臣となった。角沢楯(新庄市角沢)を築いて居城としていた。義光の跡を継いだ最上家親の命により、清水家が攻め滅ぼされると、念仏坂と呼ばれる地で自害したという。
2017.10.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

丹政直(たんまさなお)

 生年不明~没年不明 与惣左衛門。天正年間に仙北地域の小野寺氏に対する備えとして金山城を築城した。金山城(金山町金山)3千石を領したと伝わる。慶長出羽合戦では金山城を守備した。上杉征伐のため山形城に参集した奥羽諸将が自領に戻ろうとするのを、寡兵にて足留めしたという逸話が残る。
2017.10.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

鳥越武種(とりごえたけたね)

 生年不明~没年不明 九右衛門。鳥越楯(新庄市鳥越)1300石を領す。清水城主・清水光氏の重臣で清水家中で最高の禄高であったという。最上家親の命により清水家が攻め滅ぼされた後も最上家に仕えた。最上家が改易になり近江国大森に転封となった際もこれに従った。
2017.10.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

東禅寺勝正(とうぜんじかつまさ)

 天文十五年(1546)~天正十六年(1588) 東禅寺氏永の弟。右馬頭を称す。兄・氏永とともに大宝寺義興を討ち、尾浦城主を務めたという。十五里ヶ原の戦いに出陣するが、本庄繁長率いる上杉軍に敗北。氏永の戦死を知るや、一矢報いんとして繁長の本陣に潜入。繁長に斬りかかったが、兜を傷つけるに留まり、その場で斬殺された。この時、勝正が手にしていた正宗の名刀は、のちに「本庄正宗」と呼ばれた。
2017.09.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

東禅寺氏永(とうぜんじうじなが)

 天文十三年(1544)~天正十六年(1588) 名は義長とも。はじめ前森蔵人と名乗っていた。庄内地方を領有していた大宝寺義氏の妹婿であったが、義氏の度重なる外征に不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。このとき庄内の国人領主らはみな氏永に同調したという。大宝寺氏は義氏の弟・大宝寺義興(丸岡兵庫)が跡を継ぎ、上杉家重臣・本庄繁長の子を養子(大宝寺義勝)に迎えて上杉家との結びつきを強めた。天正十五年(1587)再び大宝寺氏と対立し、氏永は最上義光から援軍を得て義興を討った。しかし翌年、本庄繁長は実子の大宝寺義勝とともに庄内に侵攻、氏永はこれを迎え撃つが大敗、戦死した(十五里ヶ原の戦い)。
2017.09.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

武久昌勝(たけひさまさかつ)

 元亀三年(1572)?~承応三年(1655) 庄兵衛。近江国の生まれ。父・弥次郎は六角義賢に仕えていたが、織田信長との戦いで討死。まだ幼かった昌勝は、縁を頼って出羽に来て、やがて最上義光に5百石で仕えるようになった。大坂の陣では、江戸城留守居役であった最上家親から派遣されて参陣、その際の戦功により5百石を加増され、合計1千石となった。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えたのち、小浜藩酒井家に仕えた。現在、国宝に指定されている「伴大納言絵巻」は、最上家より昌勝が賜ったものといわれており、現在は出光美術館に所蔵されている。
2017.07.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

高橋伊賀守(たかはしいがのかみ)

 生年不明~正保元年(1644) 亀ケ崎城代・川北三奉行の一人。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えた。屋敷のあったところは酒田町代官所(のち酒田町奉行所)となった。(酒田市本町)
2017.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

寺内近江守(てらうちおうみのかみ)

 生年不明~没年不明 元和二年頃、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人であった安部越中守の後任となった。以降、最上家改易まで川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となる。屋敷のあったところは近江町と呼ばれた。(酒田市旧近江町)
2017.07.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]