HOME >  ◇最上家家臣団(あ行)

漆山九郎兵衛(うるしやまくろうひょうえ)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦において、上杉軍の大将・上泉主水泰綱に組みかかった剛の者。泰綱もろとも谷川に転げ落ち、途中で岩にぶつかって離れてしまったが、行動を共にしていた金原七蔵が泰綱を討ち取った。
2016.12.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦山筑後(うらやまちくご)

 生年不明~没年不明 主君・最上義光から三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるよう命じられた。これに対し筑後は、雑兵の手にかかる前に姫君の御首を打ち、腹を切ってお供しようと決心を固めていた。このことを知った義光は、その忠義を惜しんで筑後を留めおき、下人の中から賢い者を選んで遣わしたという。
2016.12.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦野孫右衛門(うらのまごえもん)

 生年不明~没年不明 最上義光配下の鉄砲衆。寒河江攻めの際、寒河江方の勇将・羽柴勘十郎を撃ち取るために選ばれた鉄砲の名手二十人のうちの一人。偽って退却した最上軍を追い突出した勘十郎を、伏兵にて待ち受けて狙撃し、致命傷を与えた。勘十郎の死により、寒河江方は戦意を喪失し、最上方の勝利となった。
2016.12.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上牛之介(いのうえうしのすけ)

 生年不明~没年不明 下次右衛門の家来。慶長出羽合戦ののち、次右衛門とともに最上家に仕え1千石を領す。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2016.12.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

石垣河内守(いしがきかわちのかみ)

 生年不明~没年不明 宮田館(遊佐町宮田)の館主。もとは板垣河内守と名乗っていた。大宝寺家を支持し最上家とは敵対していたが、慶長出羽合戦後に庄内地方が最上領となると最上家に仕えた。最上記によると1千石を領した。最上家改易後、替わって庄内に入部してきた酒井家に仕官しようとしたが果たせず、浪人となり帰農したという。
2016.12.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小幡昌高(おばたまさたか)

 生年不明~没年不明 播磨守を称す。武田家から北条家、次いで上杉家に仕える。慶長出羽合戦では直江兼続の陣におり、関ヶ原での西軍敗走の報が届いた際にその場に居合わせたという。のちに最上家に仕え、1千石を領した。
2016.12.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子監物(いらごけんもつ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると、庄内大山(尾浦)城主である大山内膳正(最上義光六男の光隆)の家臣として1千石を領したという。名は貞之助か。子は長崎で西洋医学を学び外科医となった伊良子道牛か。
2016.12.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子弾正(いらごだんじょう)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦の際、山形市西部の門伝館の館主を務め、館の改修を行ったという。一説には新たに門伝館を築いたとも。二人の娘がおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだと伝わる。最上家改易後も子孫は山形に残り、飯野の姓を名乗ったという。
2016.11.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]