HOME >  ◇最上家家臣団(あ行)

小国元俊(おぐにもととし)

 生年不明~寛永十四年(1637) 小国親元の子。母は日野薩摩守の娘、妻は高井淡路守親重の娘。父・親元と同じく西監物を称す。最上家改易後、岳父・親重と弟二人らとともに出羽仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、秋田藩佐竹家に仕官を果たす。佐竹家には東西南北の御一門四家があったことから、西野と称するようになったという。
2017.08.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小国親元(おぐにちかもと)

 生年不明~没年不明 倉津守俊の二男。小国光基の弟。5百石を領す。妻は山野辺城主・日野薩摩守の娘という。兄・光基の館の西側に住んでいたことから、一族家来に西殿と呼ばれ、西監物と称した。
2017.07.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小国大膳(おぐにだいぜん)

 生年不明~寛永元年(1624) 小国光基の子。大膳亮。名は親景か。父・光基に最上義光の妹が嫁いだとの話があり、義光の甥である可能性もある。倉津(蔵増)城主を務めたと伝わる。慶長出羽合戦では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。最上家改易により、父・光基、子・源三郎とともに佐賀藩鍋島家に預けられた。
2017.07.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小国光基(おぐにあきもと)

 生年不明~寛永八年(1631) 倉津守俊の子。最上義光から小国郷を賜り、小国氏を称した。小国城(最上町本城)8千石の城主。日向守を称す。名は光忠、親信とも。義光の妹婿との説もある。鉄砲に関心を持ち、鉄砲鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄砲を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。
2017.07.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小野寺道元(おのでらみちもと)

 永禄三年(1560)~寛永九年(1632) 刑部を称す。上州厩橋の生まれ。北条家、武田家、真田家、上杉家を渡り歩き、数々の戦功があった。慶長出羽合戦ののちに最上家に仕え、鉄砲奉行を務めた。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、最後は徳川忠長に仕えた。
2017.07.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

安部越中守(あべえっちゅうのかみ)

 生年不明~元和元年(1615)? 亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟が、慶長十九年(1614)に起きた一栗兵部の乱で死去すると、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともに亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。奉行となって間もなく死去したと思われ、寺内近江守が後任となった。
2017.07.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

一栗高春(いちくりたかはる)

 生年不明~慶長十九年(1614) 豊後守、のち兵部を称す。名は隆春とも。大崎家旧臣で玉造郡一栗城主を務めた。葛西・大崎一揆では、伊達政宗率いる鎮圧軍を相手に奮戦し、徹底抗戦を貫いた。戦後は出羽に落ち延びて最上義光に仕え、田川郡添川楯主、また鶴ケ岡城番を務めたという。義光が亡くなり最上家親が家督を継ぐと、これに異を唱え、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟と大山(尾浦)城主の下次右衛門を襲撃して殺害、添川楯に立て篭るも鎮圧され討死したという。
2017.07.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

飯田播磨守(いいだはりまのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 名は信兼(のぶかね)か。天童八楯のひとつで、飯田楯(村山市本飯田)を本拠地としていたが、移封となり、新たに飯田楯(山形市飯田)を築いたという。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
2017.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]