HOME >  ◇最上家家臣団(あ行)

有沢長俊(ありさわながとし)

 生年不明~寛永八年(1631) 越中土肥氏の家臣。釆女を称す。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。下吉忠の配下として小国城(鶴岡市小国)を預かり650石を領す。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れた。船で紀州に向かう途中、難破して能登に漂着し、加賀藩前田家に仕えることとなった。孫の有沢永貞は甲州流軍学を修め、加賀藩の軍学者となった。
2018.05.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦山源左衛門(うらやまげんざえもん)

 天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり 最上義康の重臣。義康が父・最上義光から高野山への退去を命ぜられた際に同道していた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に襲われ源左衛門は討死、義康も撃たれて負傷し、自刃した。
2018.05.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

漆山九郎兵衛(うるしやまくろうひょうえ)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦において、上杉軍の大将・上泉主水泰綱に組みかかった剛の者。泰綱もろとも谷川に転げ落ち、途中で岩にぶつかって離れてしまったが、行動を共にしていた金原七蔵が泰綱を討ち取った。
2018.04.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦山筑後(うらやまちくご)

 生年不明~没年不明 主君・最上義光から三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるよう命じられた。これに対し筑後は、雑兵の手にかかる前に姫君の御首を打ち、腹を切ってお供しようと決心を固めていた。このことを知った義光は、その忠義を惜しんで筑後を留めおき、下人の中から賢い者を選んで遣わしたという。
2018.04.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

浦野孫右衛門(うらのまごえもん)

 生年不明~没年不明 最上義光配下の鉄砲衆。寒河江攻めの際、寒河江方の勇将・羽柴勘十郎を撃ち取るために選ばれた鉄砲の名手二十人のうちの一人。偽って退却した最上軍を追い突出した勘十郎を、伏兵にて待ち受けて狙撃し、致命傷を与えた。勘十郎の死により、寒河江方は戦意を喪失し、最上方の勝利となった。
2018.04.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

石垣河内守(いしがきかわちのかみ)

 生年不明~没年不明 宮田楯(遊佐町宮田)の楯主。もとは板垣河内守と名乗っていた。大宝寺家を支持し最上家とは敵対していたが、慶長出羽合戦後に庄内地方が最上領となると最上家に仕えた。最上記によると1千石を領した。最上家改易後、替わって庄内に入部してきた酒井家に仕官しようとしたが果たせず、浪人となり帰農したという。
2018.03.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小幡昌高(おばたまさたか)

 生年不明~没年不明 播磨守を称す。武田家から北条家、次いで上杉家に仕える。慶長出羽合戦では直江兼続の陣におり、関ヶ原での西軍敗走の報が届いた際にその場に居合わせたという。のちに最上家に仕え、1千石を領した。
2018.02.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子監物(いらごけんもつ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると、庄内大山(尾浦)城主である大山内膳正(最上義光六男の光隆)の家臣として1千石を領したという。名は貞之助か。子は長崎で西洋医学を学び外科医となった伊良子道牛か。
2018.02.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]