HOME >  ◇最上家家臣団(は行)

日野惣左衛門(ひのそうざえもん)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると3千石を領したという。同じく3千石を領したという日野将監光綱の一族か。
2018.01.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

半田助左衛門(はんだすけざえもん)

 生年不明~没年不明 東根城主・東根景佐の家臣。慶長出羽合戦の際、東根城は上杉家尾浦城将・下吉忠の部隊からの攻撃を受けた。東根城主の景佐は、主力を率いて山形城防衛に出向いていたため、城の守勢は少なかったが、奇略を用いてよく防戦したという。この時、東根城を攻めた部隊を率いていた新関新五右衛門に対し、助左衛門が一騎打ちを挑み、相手の馬が水田に足をとられた隙に討ち取った。この戦いは、鷺の森合戦と呼ばれ、その時の戦利品であるホラ貝が東根市荒宿の戸村家に伝わっているという。
2017.11.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野光綱(ひのあきつな)

 天正五年(1577)?~寛文六年(1666)? 将監を称す。岩波楯(山形市岩波)3千石を領したと伝わる。慶長十九年(1614)、最上家親の命により最上義光三男(家親の弟)清水光氏を攻めて自害させた。義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、実質的には光綱が管理するところとなり、新庄(新城)沼田城主となった。最上家改易後は、津藩藤堂家に預けられた。
2017.10.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

東根親宜(ひがしねちかのり)

 生年不明~寛永三年(1663) 東根景佐の子。父と同じく源右衛門を名乗る。最上義光の四女・禧久姫を娶った。父の跡を継いで東根城1万2千石を領す。城主となって間もない元和八年(1622)に最上家が改易となり、徳島藩蜂須賀家に預けられた。のちに蜂須賀家から千石の知行を与えられ、中老の職に任ぜられた。
2017.08.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

東根景佐(ひがしねかげより)

 生年不明~元和六年(1620) 本姓は里見氏。源右衛門。薩摩守を称す。妻の実家は小国日向家であるという。東根城1万2千石を領す。もとは東根城主の東根頼景(天童城主・天童頼澄の弟)の重臣であったが、最上義光に内応し、頼景に代わって城主となったという。その後は、最上家の上級城持家臣の一人として活躍した。
2017.08.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

原頼秀(はらよりひで)

 生年不明~没年不明 尾浦城主下家の家老。八左衛門。美濃守を称す。下本國の伯母婿(下秀久の姉妹の婿?)という。庄内川南地域の検地を行うなど、庄内支配の実務を担当した。下家が断絶したのちも鶴岡に留まり、庄内川南二郡の郡代を務めたとされる。
2017.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日向将監(ひむかいしょうげん?)

 天正十二年(1584)~寛永十七年(1640) 北館利長の甥。父は利長の兄である日向越中守。最上家改易により浪人となる。叔父の利長に酒井家への仕官の話があった際、利長は高齢を理由に辞退し、代わりに甥の将監を推挙したため、庄内藩酒井家に召し抱えられた。
2017.06.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野栄信(ひのしげのぶ?)

 生年不明~没年不明 日野光久の子。母は中山玄蕃の娘。十兵衛。休甫入道を称す。最上家改易により仙台藩伊達家家臣の片倉重長に仕えた。片倉家においては、家老の職を務めた。
2017.06.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]