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最上義光(もがみよしあき)

 天文十五年(1546)~慶長十九年(1614) 最上家11代当主。最上義守の嫡男。最上家への集権体制の強化を目指し、伊達家との連携を図ろうとする父・義守や天童氏をはじめとする最上庶流の一族と対立した。その後、力押しだけでなく調略も駆使して、次々と対立勢力を傘下に収め、山形盆地一円に確固たる勢力を築き上げた。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、直江兼続率いる上杉軍と戦った(慶長出羽合戦)。戦後加増され、出羽山形57万石の大大名となる。山形の城下町整備や最上川舟運の発展、庄内平野の治水事業などに尽力し、最上百万石とも称えられる優れた治政を行った。
2016.01.04:mogapro:[▼最上義光]

異名その3 羽州の狐(うしゅうのきつね)

 昭和五十年(1975)に発行された日本の歴史文庫9「戦国の武将」(講談社:佐々木銀弥氏著)の「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」という記述が初出といわれている。この「狐」という表現がのちの書籍等でも紹介されるなどして、世間一般に広まったという。 ネガティブなイメージをもって「狐」と表現したものであり、地元山形においては拒否的な傾向がある。 参考:最上義光歴史館 http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=87187
2015.01.01:mogapro:[▼最上義光]

異名その2 出羽の驍将(でわのぎょうしょう)

 驍将とは、強く勇ましい大将のことを指す言葉である。最上義光を驍将と表現した初出は、昭和四十二年(1967)に発行された日本の武将60「奥羽の驍将-最上義光-」(人物往来者:誉田慶恩氏著)と思われる。 この「奥羽の驍将」は長らく義光研究の必読書とされてきたが、その内容は義光を積極的に評価したものではなく、現在では提示された義光像に疑義が提起されている。 参考:最上義光歴史館 http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=356221
2015.01.01:mogapro:[▼最上義光]

異名その1 虎将(こしょう)

 幕末の儒学者・塩屋宕陰(しおのやとういん)が、当時の山形藩主・水野忠精(みずのただきよ)に従って山形に滞在した際、詠んだ漢詩の中で最上義光のことを「虎将」と讃えたことによる。 これは、義光の官職名・左近衛少将(さこのえごんしょうしょう)の唐名である虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)にちなむものと思われる。義光の異名のうち最も古いものといわれている。 参考:最上義光歴史館 http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=31958
2015.01.01:mogapro:[▼最上義光]
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