HOME >  ◇最上家家臣団(な行)

中山光信(なかやまあきのぶ)

 生年不明~寛永十八年(1641) 中山玄蕃朝正の子。七左衛門。父とは別に千石を給されており、家督を継いだのちは最上家重臣に列した。最上家改易後は、武功の名あるをもって幕府に召し出され、福山藩阿部家に仕えて家老の職を務めた。
2016.12.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長崎式部(ながさきしきぶ)

 生年不明~没年不明 長崎城(中山町長崎)の城主を務めたという。後世の軍記物である「最上記」によると7千石を領したという。長崎城は中山玄蕃朝正の居城であるとも伝わり、「最上記」には中山玄蕃7千石と長崎(永崎)式部7千石の両方が記載されている。
2016.11.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

女三(にょさん?)

 生年不明~没年不明 最上義光に仕えた法師武者。慶長出羽合戦に際し、義光が築いたと伝わる古館城(山形市古館)の城主を務めたという。名は古館女三とも。後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。
2016.10.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

行沢式部(なめさわしきぶ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。行沢館(尾花沢市行沢)の館主を務めたという。後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。
2016.10.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

沼沢藤左衛門(ぬまざわとうざえもん)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。最上家改易により野辺沢光昌は熊本藩加藤家にお預けとなり、これに供をして熊本に移ったが、後に出羽へ帰国したという。寛永三年(1626)に光昌が熊本にて病死した際、藤左衛門の弟・助左衛門がその最期を看取り、遺骨を持ち帰ったという。
2016.10.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

中山朝正(なかやまともまさ)

 生年不明~没年不明 中山朝政の子。父の跡を継いで長崎城主となる。名は光直とも。播磨守あるいは駿河守を称す。のちに最上家親が駿河守に叙任したため、父と同じ玄蕃頭を称した。はじめ大江氏(寒河江氏)に属していたが、大江氏が滅ぶと最上義光に臣従し、そのまま長崎城主7千石に任じられた。義光が庄内地方を勢力下においた際には、尾浦城(鶴岡市大山)の城代として派遣され統治に当たったが、上杉家家臣・本庄繁長の庄内侵攻に敗れ、山形城に撤退した。その後も義光の側近として活躍、慶長出羽合戦の際は、寒河江城あるいは長崎城を守備したという。
2016.08.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

中山朝政(なかやまともまさ)

 永正十三年(1516)~天正十一年(1583) 長崎城(中山町長崎)の城主。玄蕃頭を称す。大江氏(寒河江氏)に仕えていた。一時期、渋谷懐良に占拠されていた長崎城を奪回した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていたという。
2016.08.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長岡番内(ながおかばんない)

 生年不明~没年不明 長岡但馬守の子。伴内とも。2百石を領す。最上家改易後は、庄内藩酒井家に150石で仕えた。のちに酒井家を辞し、山形に戻って帰農したとも伝わる。
2016.08.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]