HOME >  ◇最上家家臣団(な行)

中山朝正(なかやまともまさ)

 生年不明~没年不明 中山朝政の子。父の跡を継いで長崎城主となる。名は光直とも。播磨守あるいは駿河守を称す。のちに最上家親が駿河守に叙任したため、父と同じ玄蕃頭を称した。はじめ大江氏(寒河江氏)に属していたが、大江氏が滅ぶと最上義光に臣従し、そのまま長崎城主7千石に任じられた。義光が庄内地方を勢力下においた際には、尾浦城(鶴岡市大山)の城代として派遣され統治に当たったが、上杉家家臣・本庄繁長の庄内侵攻に敗れ、山形城に撤退した。その後も義光の側近として活躍、慶長出羽合戦の際は、寒河江城あるいは長崎城を守備したという。
2017.09.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

中山朝政(なかやまともまさ)

 永正十三年(1516)~天正十一年(1583) 長崎城(中山町長崎)の城主。玄蕃頭を称す。大江氏(寒河江氏)に仕えていた。一時期、渋谷懐良に占拠されていた長崎城を奪回した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていたという。
2017.09.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長岡番内(ながおかばんない)

 生年不明~没年不明 長岡但馬守の子。伴内とも。2百石を領す。最上家改易後は、庄内藩酒井家に150石で仕えた。のちに酒井家を辞し、山形に戻って帰農したとも伝わる。
2017.08.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長岡但馬守(ながおかたじまのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 現在の山形市長町に館を構え、山形城北面の防衛に当たったという。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

新関成正(にいぜきなりまさ)

 生年不明~没年不明 新関久正の子。豊後守を称す。一栗兵部高春が反乱を起こし、添川楯に立て篭った際には、先陣として駆けつけ戦功があった。最上家が改易されると、父とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられたという。
2017.06.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

新関久正(にいぜきひさまさ)

 生年不明~没年不明 因幡守を称す。藤島城(鶴岡市藤島)の城主6千5百石。一時期は鶴ケ岡城代も務めていた。一栗兵部高春が反乱を起こした際には、これを追討し功があった。赤川右岸にて堰の開削工事を進めていたが、最上家改易により中断となった。この堰は約100年後に完成、現在も庄内平野を潤しており、因幡堰と呼ばれている。
2017.06.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

庭月広綱(にわつきひろつな)

 生年不明~慶安三年(1650) 佐々木氏(鮭延氏)の一族。理右衛門。庭月楯(鮭川村庭月)の楯主として1千石を領す。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。広綱は所領を安堵され、その後も最上家家臣となった秀綱に仕えた。
2017.05.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

野辺沢康満(のべさわやすみつ)

 天正十年(1582)~寛永三年(1626) 野辺沢満延の子。のち光昌(あきまさ)。遠江守。最上義光の長女松尾姫を娶った。父の死後に家督を継ぎ野辺沢城2万石の城主となる。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。慶長十九年(1614)には、義光の跡を継いだ最上家親の命により、義光三男清水光氏の居城である清水城を攻め落とした。最上家改易後は熊本藩加藤家に預けられた。
2017.04.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]