HOME >  ☆最上四天王 

楯岡満茂(たておかみつしげ)

 弘治二年(1556)~寛永十六年(1639) 楯岡城主。豊前守。文禄四年(1595)雄勝郡に出陣し、湯沢城(湯沢市古館山)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本城城(由利本荘市尾崎)を築城、本城氏を称して、最上家中で最高の4万5千石を領した。
2017.03.16:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

里見民部(さとみみんぶ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 里見義近の子。上山城主。慶長出羽合戦では、上山城攻略に向かう上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。その後、最上義康の廃嫡事件に関わり、最上家を退去。加賀前田家などへの仕官を妨害され、各地を流浪した末に出羽に戻り、尾浦城主・下吉忠に預けられた。しかし、将来に禍根を残すとして、義近、民部、民部の子の権兵衛など主従23名が切腹させられた。
2016.05.29:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

鮭延秀綱(さけのべひでつな)

 永禄五年(1562)~正保三年(1646) 佐々木貞綱の子。名は愛綱(ちかつな)とも。典膳、越前守を称する。鮭延城(真室川町内町)1万1500石の城主。最上義光に攻められ降伏したが、その後は最上家家臣として活躍した。慶長出羽合戦では、長谷堂城の副将として奮戦し、上杉本陣を脅かすほどの戦果を挙げ、直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。
2016.04.25:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

志村光安(しむらあきやす)

 生年不明~慶長十六年(1611) 最上義光の重臣。名は高治(たかはる)とも。伊豆守。弁舌の才があり「口才人をくじき、いかなる強敵といえども彼に逢いてはすなわち降りぬ」といわれた最上家の知将。慶長出羽合戦の際には長谷堂城を守備した。直江兼続率いる上杉軍2万に対し篭城戦を展開。ついに守りきり上杉軍を撤退に追い込んだ。続いて、谷地城に取り残された上杉方の将・下吉忠のもとへ交渉に赴いて、これを降伏させると、庄内攻略戦にも加わり、戦後は酒田東禅寺(亀ケ崎)城主として3万石を領した。
2016.04.05:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

野辺沢満延(のべさわみつのぶ)

 生年不明~天正十九年(1591) 剛力無双の武将。最上家随一の豪傑。能登守。野辺沢(延沢)城主。はじめ国人領主連合「天童八楯」の一員として天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。満延の子に義光の長女を嫁がせることが決まり、義光に味方するようになった。これにより天童八楯が瓦解、天童氏は敗北した。満延の剛力ぶりを試そうとした義光が、そのあまりの強さに桜の木にしがみついたところ、その桜の木ごと引き抜いたという逸話など、数々の伝説を持つ。
2016.03.31:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

氏家守棟(うじいえもりむね)

 生年不明~天正十九年(1591)? 氏家定直の子。尾張守。知略に優れた最上義光の腹心。数々の献策にて義光を支えた。天正最上の乱では、最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。最上統一戦においては、計略をもって白鳥氏や天童氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。
2016.03.24:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

最上四天王なのに6人?

 最上四天王に誰を選ぶのかについて定義はありません。各書物においてもバラバラなんだそうです。 氏家守棟は最上家の執事を務める家柄のため四天王とは別格、楯岡満茂は最上家中で最高の4万5千石を領し副将格にあたるため別枠、里見民部は後年に最上義康暗殺事件に関わり最上家を出奔したため除外などどいわれております。 なお、活躍時期によって四天王を選ぶのもひとつの考え方かと思いまして、下記とおり4人ずつ選出してみました。ご参考まで。☆天正最上四天王[天正最上の乱から最上統一戦にかけて特に活躍した武将] 氏家守棟 最上義光の腹心。知略をもって最上家を支える。 野辺沢満延 剛力無双を誇る。向かうところ敵無しの豪傑。 清水義氏 度重なる大宝寺氏の侵攻から清水城をよく守る。 里見義近 天正最上の乱では上山城にて伊達家の猛攻を退ける。☆慶長最上四天王[慶長出羽合戦において特に活躍した武将] 志村光安 長谷堂城を守備し上杉軍を撤退に追い込む。 鮭延秀綱 上杉軍の陣に夜襲を仕掛け大混乱に陥らせる。 楯岡満茂 湯沢城に駐留し小野寺氏の攻撃をしのぐ。 里見民部 上山にて上杉軍の別働隊を奇襲し壊滅させる。
2014.02.01:mogapro:[ ☆最上四天王 ]
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