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楯岡光直(たておかあきなお)

 永禄二年(1559)or永禄八年(1565)~寛永六年(1629) 最上義守の三男。甲斐守。楯岡城主1万6千石。兄・最上義光を慕っていたようで、山寺立石寺に奉納した義光の健康を祈る願文を刻んだ鰐口が現存している。慶長五年(1600)の慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦い、その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。山形藩二代藩主・最上家親が死去すると、三代藩主の最上家信に代えて、義光四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し、改易された。改易後は小倉藩細川家に預けられた。
2016.02.24:mogapro:[ ○弟・妹 ]

長瀞義保(ながとろよしやす)

 生年不明~天正十九年(1591) 最上義守の二男。新八郎。天童氏が滅亡した後、天童氏を盟主とする国人領主連合「天童八楯」の一員であった長瀞氏を継いだといわれている。天正十九年(1591)に戦死したという。庄内松根の佐藤家の娘で松ヶ枝という女性が妻であると伝わっている。息子が1人おり、のちの松根光広である。
2016.02.16:mogapro:[ ○弟・妹 ]

義姫(よしひめ)

 天文十七年(1548)~元和九年(1623) 最上義守の長女。17歳で伊達輝宗に嫁ぐ。お東の方。伊達政宗の母。兄・最上義光が政宗を攻めようとした際には、戦場に輿で乗り付けて停戦を訴え、ついには義光が折れて和睦に至っている。文禄三年(1594)岩出山から実家である山形に戻った。義光が直江兼続率いる上杉軍に攻められた際には、政宗に援軍を催促する書状を送った。最上家が改易されると、仙台に引き取られた。
2016.02.15:mogapro:[ ○弟・妹 ]
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