HOME >  ◇最上家家臣団(や行)

横田氏信(よこたうじのぶ)

 生年不明~没年不明 大学を称す。蘆名家重臣・山内舜通の二男。山内一族の中でも第一の器用の人であり、文武二道の達人と評されていたという。舜通は、嫡男の氏勝を差し置いて氏信に家督を継がせようとしたため争いが起こる。兄・氏勝は身を引こうとするが、この事態に心を痛めた氏信は、自ら会津を出、越後を経て、徳川家康の家臣となった。その後、摺上原の戦いにて蘆名家が滅亡、山内家も危機に陥ると、氏勝救援のため会津に赴き、家康の口添えにより越後上杉家の助力も得て所領を守りきった。奥州仕置後は、氏勝とともに上杉家に仕え、後に最上家に仕えた。義光分限帳によると1千石、最上記によると2千石を領したという。一説には、最上家親が江戸城詰の頃からの子飼いの士であるといい、家親亡き後は松根光広に仕え、幕府に直訴のため出府した際には、その護衛役を務めたという。最上家改易後は、紀州藩徳川家・徳川頼宣に仕えたという。
2016.12.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

矢口氏忠(やぐちうじただ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 矢口氏広の子。父の跡を継いで川口館(鮭川村川口)の館主となる。子に氏益があり、川口館は氏広、氏忠、氏益の三代が館主であった。最上義光の跡を継いだ最上家親の命により、清水光氏が攻め滅ぼされた際、清水の興源院で自害したという。
2016.10.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

矢口氏広(やぐちうじひろ)

 生年不明~没年不明 庄内砂越氏の一族という。内記、内膳、讃岐守を称す。清水城主・清水氏に客将として迎えられ、川口館(鮭川村川口)を預かったという。1千石を領した。
2016.10.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

安恵久右衛門(やすえきゅうえもん)

 生年不明~天和元年(1681) 安食光信の末子という。安恵重近の弟。兄と同じく伊賀衆を率いて最上義光に仕え、200石を領した。最上家改易後も山形に留まり、兄とともに伊賀衆を率いて山形藩鳥居家、次いで山形藩保科家に仕えた。
2016.09.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

安恵重近(やすえしげちか)

 生年不明~寛文七年(1667) 安食光信の子という。治右衛門。伊賀衆を率いて最上義光に仕え、150石を領した。山形城下にはかつて諜報や火防の任にあたる伊賀衆が住んでいた町があり、伊賀町と呼ばれていた。(現在の山形市宮町5丁目付近)
2016.09.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

山家主計(やんべかずえ)

 生年不明~没年不明 山家河内守の子という。本城豊前守満茂の家来衆の中にその名がみえる。最上家改易後は、満茂に従って前橋藩酒井家に仕え、200石あるいは250石を領した。
2016.08.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

山家河内守(やんべかわちのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 山家城(山形市山家)の城主か。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。義姫が伊達家に嫁ぐ際に随行し、伊達家家臣となった山家清左衛門公俊も河内守を称したと伝わるが、関係は不明。
2016.08.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

谷地森長元(やちもりながもと)

 生年不明~没年不明 谷地森貞元の子。藤右衛門。父と同じく最上家に仕えたが、最上家改易により会津加藤家に仕えた。その後、子の重一の代に加藤家が自ら封土を返上したため浪人となったが、仙台藩伊達家に仕えることができた。
2016.06.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]