HOME >  ◇最上家家臣団(さ行)

神保利長(じんぼとしなが)

 永禄十一年(1568)~慶安二年(1649) 左衛門、隠岐守を称す。父は越中の神保氏春、母は佐々成政の娘。初め上杉家に仕えて数々の武功をあげ、慶長出羽合戦後に上杉家を離れ最上家に仕えた。若木館(山形市若木)に配され2千石を領した。最上家改易後は、山形藩鳥居家、次いで山形藩保科家に仕えた。
2018.01.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

里見市正(さとみいちのかみ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると2千3百石を領したという。上山城主であった里見越後守・里見民部父子、または東根城主であった里見薩摩守などと同じ里見一族と思われる。
2018.01.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

関三郎兵衛(せきさぶろうひょうえ)

 生年不明~慶長五年(1600) 慶長出羽合戦に際し、鳥屋ヶ森城(朝日町新宿)を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、上杉軍の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城。討死したと伝わる。
2017.12.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

笹原石見守(ささはらいわみのかみ)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の家老。篠原石見守とも。名は昌良か。有路但馬守とともに野辺沢満延(能登守)を支え、「能登内に有路笹原なかりせば義光公にくびを延沢」という狂歌が伝わっている。最上家改易後、笹原氏の一族が仙台藩伊達家に仕えたという。
2017.11.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江親清(さがえちかきよ)

 天正十六年(1588)~寛永十九年(1642) 草刈薩摩守(草刈志摩守?)の二男。男子の無かった寒河江元茂の婿養子となる。初め織部と称し、のちに十兵衛を称した。鶴ケ岡城の詰番を務めた。最上家改易後は、会津藩蒲生家、続いて会津藩加藤家に仕えた。
2017.08.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江元茂(さがえもとしげ)

 永禄三年(1560)~慶長十九年(1614) 十兵衛。260石を領す。ある時、主君・最上義光の近習と争いごとを起こし、家老達から切腹を申し渡されてしまう。しかし、義光の温情により切腹を免れ、暇を出されて仙台で暮らすこととなった。その後も義光は元茂を気遣い、金子を送って生活を助けていたという。義光が文禄の役に出陣すると聞くや、そのあとを追いかけ御供を願い出て、帰参を許された。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江親俊(さがえちかとし)

 生年不明~没年不明 寒河江廣秋の子。寒河江廣俊の弟。監物を称す。義光分限帳では150石、義俊分限帳では60石を領したとの記録が残る。最上家改易後、子の甚右衛門信安は、福岡藩黒田家に仕え島原の乱にて奮戦した。のちに福井藩松平家に仕えて6百石を領した。
2017.08.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江俊長(さがえとしなが)

 生年不明~没年不明 寒河江廣俊の子。新次郎。父・廣俊が最上義光の墓前にて殉死したため、その跡を継いだ。山形城の西側の一画に広大な屋敷地を持っていた。最上家改易後の動向は不明だが、寛文二年(1662)になって、子の惣右衛門俊重が福井藩松平家に仕えた。
2017.08.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]