HOME >  ◇最上家家臣団(さ行)

佐藤憲茂(さとうのりしげ)

 生年不明~慶長五年(1600) 理兵衛。樋幡城(山辺町要害)の城主。豊後守を称す。慶長出羽合戦の長谷堂城八幡崎口攻防戦にて戦死。佐藤理兵衛家は西行法師=佐藤義清(さとうのりきよ、憲清とも記される)の親類となる家柄であり、西行が出羽にやってきた際、この佐藤家にしばらく滞在していたとの記録が残っている。
2017.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

里見主水(さとみもんど)

 生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の弟。慶長出羽合戦の際、上山方面に押し寄せた上杉軍を兄・民部らとともに奇襲し撃退した。後世の軍記物である「最上記」には2千石を領した里見永水という名が記されており、主水のことではないかと思われる。
2017.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

里見義近(さとみよしちか)

 生年不明~慶長十九年(1614) 越後守を称す。最上領と伊達領の境である上山城主の重責を担った。慶長出羽合戦では、軍奉行として山形城に入り、続いて庄内攻略戦でも軍奉行を務めた。その後、最上義康の廃嫡事件に関わり、最上家を退去した。
2017.05.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光吉(さかあきよし)

 文禄四年(1595)~延宝八年(1680) 坂光重の嫡男。九郎右衛門。父とは別に140石を給されていた。最上家改易後も長谷堂に居住していたが、寛永十四年(1637)になって、父・光重とともに置賜郡荒砥に移住する。のちに米沢藩上杉家に召し抱えられた。
2017.05.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光重(さかあきしげ)

 天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2017.05.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光秀(さかあきひで)

 生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。最上義光の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2017.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

鮭延左衛門尉(さけのべさえもんのじょう)

 天正十四年(1586)~慶長十七年(1612) 鮭延秀綱の嫡男。名は左右衛門(さえもん)とも。慶長出羽合戦(長谷堂の戦い)にて初陣を飾る。奥羽永慶軍記には、この戦いでの上杉軍本陣に迫る勇猛な活躍ぶりが記されている。一方、鮭延越前守聞書には、敵陣に深入りして散々に攻められ、父・秀綱が助けに入って、一緒になった退いたとある。のちに家督を継ぐことなく、若くして亡くなった。
2017.04.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

進藤安清(しんどうやすきよ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 亀ケ崎城主志村家の家老。但馬守。進藤楯(酒田市中野俣)の楯主。庄内川北地域の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され、主君・志村光惟とともに命を落とした。
2017.04.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]