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寒河江親清(さがえちかきよ)

 天正十六年(1588)~寛永十九年(1642) 草刈薩摩守(草刈志摩守?)の二男。男子の無かった寒河江元茂の婿養子となる。初め織部と称し、のちに十兵衛を称した。鶴ケ岡城の詰番を務めた。最上家改易後は、会津藩蒲生家、続いて会津藩加藤家に仕えた。
2017.08.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江元茂(さがえもとしげ)

 永禄三年(1560)~慶長十九年(1614) 十兵衛。260石を領す。ある時、主君・最上義光の近習と争いごとを起こし、家老達から切腹を申し渡されてしまう。しかし、義光の温情により切腹を免れ、暇を出されて仙台で暮らすこととなった。その後も義光は元茂を気遣い、金子を送って生活を助けていたという。義光が文禄の役に出陣すると聞くや、そのあとを追いかけ御供を願い出て、帰参を許された。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江親俊(さがえちかとし)

 生年不明~没年不明 寒河江廣秋の子。寒河江廣俊の弟。監物を称す。義光分限帳では150石、義俊分限帳では60石を領したとの記録が残る。最上家改易後、子の甚右衛門信安は、福岡藩黒田家に仕え島原の乱にて奮戦した。のちに福井藩松平家に仕えて6百石を領した。
2017.08.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江俊長(さがえとしなが)

 生年不明~没年不明 寒河江廣俊の子。新次郎。父・廣俊が最上義光の墓前にて殉死したため、その跡を継いだ。山形城の西側の一画に広大な屋敷地を持っていた。最上家改易後の動向は不明だが、寛文二年(1662)になって、子の惣右衛門俊重が福井藩松平家に仕えた。
2017.08.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江廣俊(さがえひろとし)

 生年不明~慶長十九年(1614) 寒河江廣秋の子。山野辺城2万7千石を領したと伝わる。肥前守を称す。一説には、中野の安楽寺という寺の小僧だったが、最上義光に見込まれて出世し、寒河江の名字と1万5千石を賜ったという。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江光俊(さがえあきとし)

 生年不明~没年不明 寒河江城主大江氏(寒河江氏)の一族。外記を称す。天正十二年(1584)の最上義光による寒河江攻めののち寒河江城主に任じられたという。天正十六年(1588)の上杉家臣・本庄繁長による庄内侵攻を不当であると豊臣秀吉に訴えるため派遣されたほか、翌年、徳川家康が義光に上洛を勧めた際には、家康のもとに鷹三羽を持って弁明に赴いたという。太閤検地により起きた小野寺領内の一揆を鮭延秀綱らとともに鎮圧、由利十二頭の平定にも功があった。
2017.08.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

斎藤親盛(さいとうちかもり)

 慶長八年(1603)~延宝二年(1674) 斎藤廣盛の子。清三郎。母は東禅寺勝正の妹という。最上家親に近侍して偏諱を賜り、親盛と名乗った。最上家改易後、父とともに越後に赴くが、そこで父は急死してしまったため、親盛は江戸に出て医者になったという。文学の才能があり、如儡子の号で仮名草子の傑作とされる「可笑記」等を発表した。
2017.07.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

斎藤廣盛(さいとうひろもり)

 永禄十一年(1568)~元和八年(1622) 筑後守を称す。慶長出羽合戦の際は上杉家に仕えており、古口楯や庭月楯を攻め落としたが、関ヶ原における西軍敗北により撤退、酒田城に立て篭って最上軍と戦った。親しかった下対馬守の仲裁により城を明け渡し、下家の治める尾浦城に身を寄せた。その後、最上家の直臣となり、亀ケ崎城主の志村光惟が死去すると、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。のちに里見民部が叛いた際に討手を命ぜられ、その功により褒美を賜ったという。
2017.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]