HOME >  ◇最上家家臣団(か行)

木戸周防守(きどすおうのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 清水城主・清水氏の重臣。馬上衆で筆頭家老であったと伝わる。八向楯(新庄市本合海)の楯主として1千石を領す。熊野楯(鮭川村佐渡)の楯主であったとも伝えられている。
2017.10.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

倉津守俊(くらつもりとし)

 生年不明~没年不明 倉津(蔵増)城(天童市蔵増)の城主。安房守を称す。名は親俊とも。もとは天童家家臣であったが、天正十二年(1584)の最上義光による天童城攻略戦より以前に最上家に与するようになったと考えられる。義光が天童頼久の岳父である細川直元の領する小国郷を攻めた際、万騎ヶ原の戦いにて戦功をあげ、守俊の子・光基に小国郷が与えられた。
2017.07.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館正久(きただてまさひさ)

 生年不明~没年不明 北館利長の子。助次郎。最上家改易により浪人となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられた。このとき父の利長にも仕官の話があったが、高齢を理由に辞退したという。
2017.06.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館利長(きただてとしなが)

 天文十七年(1548)~寛永二年(1625) 大学助。慶長出羽合戦の後、庄内が最上領となると狩川城(庄内町狩川)の城主に任じられ、広大な原野であった庄内平野を水田とすべく、長年に渡って現地の調査を行った。結果、立谷沢川から堰を掘って水を引くしかないとの結論に達し、この事を主君である最上義光に提案した。一部の家臣からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で延長10キロメートルを超える堰を完成させた。この堰は、北楯大堰と呼ばれ、現在も庄内平野を潤しており、利長は水神様として、北舘神社にまつられている。
2017.06.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

川熊壱岐守(かわくまいきのかみ)

 生年不明~没年不明 大崎家旧臣。大崎家改易後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、小国大膳、谷地森伯耆守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。
2017.06.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

草刈虎之助(くさかりとらのすけ)

 生年不明~天正十六年(1588) 天童衆か。中山朝正らとともに庄内地方統治のため派遣される。十五里ヶ原の戦いでは本庄繁長率いる上杉軍を迎え撃った。東禅寺氏永が戦死し、敗色濃厚となるなか、一歩も退かずに奮戦したという。最上勢がことごとく討たれると、最期は千安川べりにて自害した。その地には草岡八幡が建てられ、虎之助が祀られている。
2017.05.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

草刈虎正(くさかりとらまさ)

 生年不明~慶長五年(1600) 志摩守を称す。天童衆。草刈虎之助の子か。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城に攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け戦死した(広河原の戦い)。
2017.05.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

加藤清次(かとうきよつぐ)

 生年不明~慶長五年(1600) 悪戸楯(山形市村木沢悪戸)楯主。伊達政宗の母・保春院(義姫)の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。また、畑谷城にて光清の自害を見届け、これを山形城の最上義光に報告したとも伝わる。
2017.05.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]