下秀実(しもひでざね)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 下吉忠の子。父と同じく次右衛門を名乗る。父の死後に家督を継ぎ、尾浦城主となる。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され命を落とした。ただし、この時亡くなった次右衛門は吉忠であるとの説もあり、実在した人物かどうか疑問が残る。
2016.06.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下吉忠(しもよしただ)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 次右衛門。対馬守を称す。のちに名を康久に改める。上州沼田にて北条家に仕えていたが、北条家の滅亡後は上杉家に仕えて直江兼続の配下に属した。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城(河北町谷地)に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、その功により尾浦城主1万2千石に任じられた。
2016.06.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

斎藤光則(さいとうあきのり)

 生年不明~没年不明 谷地城主4千石、のち高擶城主5千5百石となる。伊予守を称す。「太閤より御預け」の記録があり、他家から最上家に身柄を預けられ、のちに家臣として召し抱えられた可能性もある。最上川舟運の発展のため、川の難所を開削する工事の責任者を務め、他国から大勢の石工を呼び寄せ工事を完成させた。このほか新田開発や田畑の検地など内政面で最上義光に重用され、優れた業績を残した。義光の嫡男・最上義康が暗殺された際、義光は光則にこの事件の真相究明を命じたという。
2016.06.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

日向将監(ひむかいしょうげん?)

 天正十二年(1584)~寛永十七年(1640) 北館利長の甥。父は利長の兄である日向越中守。最上家改易により浪人となる。叔父の利長に酒井家への仕官の話があった際、利長は高齢を理由に辞退し、代わりに甥の将監を推挙したため、庄内藩酒井家に召し抱えられた。
2016.06.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

北館正久(きただてまさひさ)

 生年不明~没年不明 北館利長の子。助次郎。最上家改易により浪人となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられた。このとき父の利長にも仕官の話があったが、高齢を理由に辞退したという。
2016.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館利長(きただてとしなが)

 天文十七年(1548)~寛永二年(1625) 大学助。慶長出羽合戦の後、庄内が最上領となると狩川城(庄内町狩川)の城主に任じられ、広大な原野であった庄内平野を水田とすべく、長年に渡って現地の調査を行った。結果、立谷沢川から堰を掘って水を引くしかないとの結論に達し、この事を主君である最上義光に提案した。一部の家臣からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で延長10キロメートルを超える堰を完成させた。この堰は、北楯大堰と呼ばれ、現在も庄内平野を潤しており、利長は水神様として、北舘神社にまつられている。
2016.06.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

新関成正(にいぜきなりまさ)

 生年不明~没年不明 新関久正の子。豊後守を称す。一栗兵部高春が反乱を起こし、添川楯に立て篭った際には、先陣として駆けつけ戦功があった。最上家が改易されると、父とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられたという。
2016.06.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

新関久正(にいぜきひさまさ)

 生年不明~没年不明 因幡守を称す。藤島城(鶴岡市藤島)の城主6千5百石。一時期は鶴ケ岡城代も務めていた。一栗兵部高春が反乱を起こした際には、これを追討し功があった。赤川右岸にて堰の開削工事を進めていたが、最上家改易により中断となった。この堰は約100年後に完成、現在も庄内平野を潤しており、因幡堰と呼ばれている。
2016.06.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]