坂光重(さかあきしげ)

 天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2017.05.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光秀(さかあきひで)

 生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。最上義光の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2017.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

飯田播磨守(いいだはりまのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 名は信兼(のぶかね)か。天童八楯のひとつで、飯田楯(村山市本飯田)を本拠地としていたが、移封となり、新たに飯田楯(山形市飯田)を築いたという。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
2017.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

谷柏直家(やがしわなおいえ)

 生年不明~没年不明 最上義光の小姓。のち谷柏楯(山形市谷柏)楯主4千石。相模守。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向かう。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿軍として戦っていた飯田が討ち取られたこと知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。
2017.05.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

加藤清次(かとうきよつぐ)

 生年不明~慶長五年(1600) 悪戸楯(山形市村木沢悪戸)楯主。伊達政宗の母・保春院(義姫)の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。また、畑谷城にて光清の自害を見届け、これを山形城の最上義光に報告したとも伝わる。
2017.05.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

江口光清(えぐちあききよ)

 生年不明~慶長五年(1600) 畑谷城(山辺町畑谷)城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。最上家家臣の中でも連歌の才に秀で、連歌会に何度も参加している。
2017.05.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

鳥海信道(とりのうみのぶみち)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光夫人の侍女・花輪と恋仲になり、これに怒った義光から死罪を申し渡されるが、鮭延秀綱の取り成しにより事無きを得、晴れて夫婦となった。このことに恩義を感じていた信道は、慶長出羽合戦では秀綱のもとで出陣、秀綱の身を守り討死した。妻の花輪も夫の葬儀を済ませると自害したという。このことを聞いた義光は、自らを恥じ入り、二人を丁重に弔ったと伝わる。
2017.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

庭月広綱(にわつきひろつな)

 生年不明~慶安三年(1650) 佐々木氏(鮭延氏)の一族。理右衛門。庭月楯(鮭川村庭月)の楯主として1千石を領す。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。広綱は所領を安堵され、その後も最上家家臣となった秀綱に仕えた。
2017.05.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]