日向将監(ひむかいしょうげん?)

 天正十二年(1584)~寛永十七年(1640) 北館利長の甥。父は利長の兄である日向越中守。最上家改易により浪人となる。叔父の利長に酒井家への仕官の話があった際、利長は高齢を理由に辞退し、代わりに甥の将監を推挙したため、庄内藩酒井家に召し抱えられた。
2017.06.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

北館正久(きただてまさひさ)

 生年不明~没年不明 北館利長の子。助次郎。最上家改易により浪人となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられた。このとき父の利長にも仕官の話があったが、高齢を理由に辞退したという。
2017.06.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館利長(きただてとしなが)

 天文十七年(1548)~寛永二年(1625) 大学助。慶長出羽合戦の後、庄内が最上領となると狩川城(庄内町狩川)の城主に任じられ、広大な原野であった庄内平野を水田とすべく、長年に渡って現地の調査を行った。結果、立谷沢川から堰を掘って水を引くしかないとの結論に達し、この事を主君である最上義光に提案した。一部の家臣からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で延長10キロメートルを超える堰を完成させた。この堰は、北楯大堰と呼ばれ、現在も庄内平野を潤しており、利長は水神様として、北舘神社にまつられている。
2017.06.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

新関成正(にいぜきなりまさ)

 生年不明~没年不明 新関久正の子。豊後守を称す。一栗兵部高春が反乱を起こし、添川楯に立て篭った際には、先陣として駆けつけ戦功があった。最上家が改易されると、父とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられたという。
2017.06.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

新関久正(にいぜきひさまさ)

 生年不明~没年不明 因幡守を称す。藤島城(鶴岡市藤島)の城主6千5百石。一時期は鶴ケ岡城代も務めていた。一栗兵部高春が反乱を起こした際には、これを追討し功があった。赤川右岸にて堰の開削工事を進めていたが、最上家改易により中断となった。この堰は約100年後に完成、現在も庄内平野を潤しており、因幡堰と呼ばれている。
2017.06.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

富並親直(とみなみちかなお)

 生年不明~没年不明 日野光久の三男。彦市郎。富並城(村山市富並)の城主3千石。谷柏相模守光直の娘を娶り富並の地に入ったという。最上家改易により浪人となり、伊達郡桑折にて死去。
2017.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

日野栄信(ひのしげのぶ?)

 生年不明~没年不明 日野光久の子。母は中山玄蕃の娘。十兵衛。休甫入道を称す。最上家改易により仙台藩伊達家家臣の片倉重長に仕えた。片倉家においては、家老の職を務めた。
2017.06.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野光久(ひのあきひさ)

 生年不明~没年不明 備中守を称す。山辺城主、のち塩ノ沢楯主(大石田町横山)か。庄内川南地域と由利郡の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。由利郡の検地では、5万4千8百石を調べ上げ「備中棹」の異名を取ったという。
2017.06.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]