中山朝正(なかやまともまさ)

 生年不明~没年不明 中山朝政の子。父の跡を継いで長崎城主となる。名は光直とも。播磨守あるいは駿河守を称す。のちに最上家親が駿河守に叙任したため、父と同じ玄蕃頭を称した。はじめ大江氏(寒河江氏)に属していたが、大江氏が滅ぶと最上義光に臣従し、そのまま長崎城主7千石に任じられた。義光が庄内地方を勢力下においた際には、尾浦城(鶴岡市大山)の城代として派遣され統治に当たったが、上杉家家臣・本庄繁長の庄内侵攻に敗れ、山形城に撤退した。その後も義光の側近として活躍、慶長出羽合戦の際は、寒河江城あるいは長崎城を守備したという。
2016.08.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

中山朝政(なかやまともまさ)

 永正十三年(1516)~天正十一年(1583) 長崎城(中山町長崎)の城主。玄蕃頭を称す。大江氏(寒河江氏)に仕えていた。一時期、渋谷懐良に占拠されていた長崎城を奪回した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていたという。
2016.08.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

山家主計(やんべかずえ)

 生年不明~没年不明 山家河内守の子という。本城豊前守満茂の家来衆の中にその名がみえる。最上家改易後は、満茂に従って前橋藩酒井家に仕え、200石あるいは250石を領した。
2016.08.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

山家河内守(やんべかわちのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 山家城(山形市山家)の城主か。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。義姫が伊達家に嫁ぐ際に随行し、伊達家家臣となった山家清左衛門公俊も河内守を称したと伝わるが、関係は不明。
2016.08.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

落合伯耆守(おちあいほうきのかみ)

 生年不明~没年不明 落合館(山形市落合)の館主。山形城北面の防衛に当たったという。山形市長町の熊野神社を厚く信奉していたと伝わる。
2016.08.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

長岡番内(ながおかばんない)

 生年不明~没年不明 長岡但馬守の子。伴内とも。2百石を領す。最上家改易後は、庄内藩酒井家に150石で仕えた。のちに酒井家を辞し、山形に戻って帰農したとも伝わる。
2016.08.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長岡但馬守(ながおかたじまのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 現在の山形市長町に館を構え、山形城北面の防衛に当たったという。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2016.08.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

寒河江親清(さがえちかきよ)

 天正十六年(1588)~寛永十九年(1642) 草刈薩摩守(草刈志摩守?)の二男。男子の無かった寒河江元茂の婿養子となる。初め織部と称し、のちに十兵衛を称した。鶴ケ岡城の詰番を務めた。最上家改易後は、会津藩蒲生家、続いて会津藩加藤家に仕えた。
2016.08.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]