堀喜吽(ほりきうん)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死。この時、義光自身も兜に銃弾を受けた。
2016.05.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

向田光之(むかいだあきゆき)

 生年不明~慶長五年(1600) 八郎左衛門。最上義光から畑谷城救援のため派遣されるが、途中で畑谷城落城の知らせを聞き、この事を義光に知らせるため引き返した。その後、鬼越の地まで戻ってきた時、霞で煙った山形城が見え、これを山形城も落城したものと勘違いし、その場で自刃してしまったという。
2016.05.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(ま行)]

坂光吉(さかあきよし)

 文禄四年(1595)~延宝八年(1680) 坂光重の嫡男。九郎右衛門。父とは別に140石を給されていた。最上家改易後も長谷堂に居住していたが、寛永十四年(1637)になって、父・光重とともに置賜郡荒砥に移住する。のちに米沢藩上杉家に召し抱えられた。
2016.05.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光重(さかあきしげ)

 天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2016.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光秀(さかあきひで)

 生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。最上義光の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2016.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

飯田播磨守(いいだはりまのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 名は信兼(のぶかね)か。天童八楯のひとつで、飯田館(村山市本飯田)を本拠地としていたが、移封となり、飯田館(山形市飯田)を築いたという。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
2016.05.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

谷柏直家(やがしわなおいえ)

 生年不明~没年不明 最上義光の小姓。のち谷柏館(山形市谷柏)館主4千石。相模守。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向かう。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿軍として戦っていた飯田が討ち取られたこと知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。
2016.05.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

加藤清次(かとうきよつぐ)

 生年不明~慶長五年(1600) 悪戸楯(山形市村木沢悪戸)楯主。伊達政宗の母・保春院(義姫)の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。また、畑谷城にて光清の自害を見届け、これを山形城の最上義光に報告したとも伝わる。
2016.05.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]