丹政直(たんまさなお)

 生年不明~没年不明 与惣左衛門。天正年間に仙北地域の小野寺氏に対する備えとして金山城を築城した。金山城(金山町金山)3千石を領したと伝わる。慶長出羽合戦では金山城を守備した。上杉征伐のため山形城に参集した奥羽諸将が自領に戻ろうとするのを、寡兵にて足留めしたという逸話が残る。
2016.09.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

鳥越武種(とりごえたけたね)

 生年不明~没年不明 九右衛門。鳥越館(新庄市鳥越)1300石を領す。清水城主・清水光氏の重臣で清水家中で最高の禄高であったという。最上家親の命により清水家が攻め滅ぼされた後も最上家に仕えた。最上家が改易になり近江国大森に転封となった際もこれに従った。
2016.09.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

日野光綱(ひのあきつな)

 天正五年(1577)?~寛文六年(1666)? 将監を称す。岩波館(山形市岩波)3千石を領したと伝わる。慶長十九年(1614)、最上家親の命により最上義光三男(家親の弟)清水光氏を攻めて自害させた。義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、実質的には光綱が管理するところとなり、新庄(新城)沼田城主となった。最上家改易後は、津藩藤堂家に預けられた。
2016.09.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

安恵久右衛門(やすえきゅうえもん)

 生年不明~天和元年(1681) 安食光信の末子という。安恵重近の弟。兄と同じく伊賀衆を率いて最上義光に仕え、200石を領した。最上家改易後も山形に留まり、兄とともに伊賀衆を率いて山形藩鳥居家、次いで山形藩保科家に仕えた。
2016.09.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

安恵重近(やすえしげちか)

 生年不明~寛文七年(1667) 安食光信の子という。治右衛門。伊賀衆を率いて最上義光に仕え、150石を領した。山形城下にはかつて諜報や火防の任にあたる伊賀衆が住んでいた町があり、伊賀町と呼ばれていた。(現在の山形市宮町5丁目付近)
2016.09.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

安食信重(あじきのぶしげ)

 慶長十八年(1613)~延宝五年(1677) 安食光信の子。七兵衛。藤次郎や太兵衛とも名乗る。父の死後、幼くして家督を相続したものと思われる。最上家改易により浪人するが、南光坊天海の助力により水戸藩徳川家に仕えた。
2016.09.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

安食光信(あじきあきのぶ)

 生年不明~元和三年(1617) 大和守を称す。中里館(山形市中里)の館主、のちに土生田城(村山市土生田)の城主を務めたという。また、義光分限帳によれば、元は成澤城(山形市蔵王成沢)の城主で5千石を領していたという。伊達軍と蘆名軍が戦った摺上原の戦いに、伊達軍への援軍として派遣され、百余騎を率いて伊達政宗の陣に加わったと伝わる。
2016.09.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

草刈虎之助(くさかりとらのすけ)

 生年不明~天正十六年(1588) 天童衆か。中山朝正らとともに庄内地方統治のため派遣される。十五里ヶ原の戦いでは本庄繁長率いる上杉軍を迎え撃った。東禅寺氏永が戦死し、敗色濃厚となるなか、一歩も退かずに奮戦したという。最上勢がことごとく討たれると、最期は千安川べりにて自害した。その地には草岡八幡が建てられ、虎之助が祀られている。
2016.09.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]