伊良子弾正(いらごだんじょう)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦の際、山形市西部の門伝館の館主を務め、館の改修を行ったという。一説には新たに門伝館を築いたとも。二人の娘がおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだと伝わる。最上家改易後も子孫は山形に残り、飯野の姓を名乗ったという。
2016.11.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子長門守(いらごながとのかみ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。最上義光は山形城三の丸の十一口にそれぞれ重臣を配置して防衛を固めた。このうち、山形城北西の下条口に配されたのが伊良子長門守であるという。
2016.11.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子信濃守(いらごしなののかみ)

 生年不明~没年不明 朝鮮出兵に際し山形にて留守居役を務めた。最上義光は滞陣していた肥前名護屋から、伊良子信濃守あてに「命のうちにいま一度、最上の川地を踏み申したく候、水を一ぱい呑みたく候」と書いた書状を出した。
2016.11.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子宗牛(いらごそうぎゅう)

 生年不明~没年不明 甲斐源氏の支流・秋山氏が三河国渥美郡伊良子村に移り住み伊良子を名乗ったという。最上記によると宗牛は柏木山合戦の際、成沢城防衛のため派遣され、武田信玄が日本国で剛の者として名の知られた武者を聞き出し、書き集めた枕屏風の4番目にその名があったという。
2016.11.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

朝比奈讃岐守(あさひなさぬきのかみ)

 生年不明~没年不明 井出館(大石田町大石田)の館主として2千石を領す。天正十三年(1585)、最上義光は井出館の太田外記を攻めて落城させ、その後に朝比奈讃岐守を配したという。
2016.11.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

神保利長(じんぼとしなが)

 永禄十一年(1568)~慶安二年(1649) 左衛門、隠岐守を称す。父は越中の神保氏春、母は佐々成政の娘。初め上杉家に仕えて数々の武功をあげ、慶長出羽合戦後に上杉家を離れ最上家に仕えた。若木館(山形市若木)に配され2千石を領した。最上家改易後は、山形藩鳥居家、次いで山形藩保科家に仕えた。
2016.11.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

里見市正(さとみいちのかみ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると2千3百石を領したという。上山城主であった里見越後守・里見民部父子、または東根城主であった里見薩摩守などと同じ里見一族と思われる。
2016.11.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

高楯俊福(たかだてとしとみ?)

 生年不明~没年不明 高楯正福の子。父と同じく遠江守を称す。最上家改易に際し、最上家信(義俊)に従って近江国大森に赴いた。俊福の娘は、義俊の二男である義長の妻となった。
2016.11.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]