高橋英国(たかはしひでくに)

 生年不明~没年不明 弾之助。鮭延秀綱の家臣。最上義光が野辺沢満延の勇力を試すために選んだ大力の持ち主七人のうちの筆頭。身の丈七尺の大男。そのため身に合う武具が無く、いつも素肌のままで戦っていた。太っていたこともあり裸豕之助(はだかぶたのすけ)と呼ばれていたのを、義光が「武太之助」に改めさせたという。のちに鮭延家を離れて浪人となり、雄勝郡寺沢の土民たちに助力を請われた戦にて討死したという。
2018.07.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

鮎貝覺左衛門(あゆかいかくざえもん)

 生年不明~万治三年(1660) 鮎貝宗信の子。妻は中山朝正の娘。父と同じく最上義光四男・山野辺光茂に仕え、最上家改易後も光茂に従っていたという。のちに光茂の仲介により水戸藩徳川家に直参として百石で仕えた。
2018.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

鮎貝宗信(あゆかいむねのぶ)

 生年不明~没年不明 藤太郎。忠宗とも。伊達家家臣として鮎貝城(白鷹町鮎貝)三万五千石を領していた。伊達政宗に叛旗をひるがえすも最上家からの援軍を得られず、最上義光を頼って落ち延びたという。のちに義光四男・山野辺光茂に仕えた。鮎貝家は謀反騒動ののち宗信の弟が家督を継ぎ、引き続き伊達家に仕えた。
2018.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

齋藤忠頼(さいとうただより)

 生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の孫と伝わる。大叔父である齋藤伯耆守の跡を継ぎ、山野辺家の城代家老を務める。最上家改易に際しては主君・山野辺光茂(義忠)に従い、のちに水戸藩徳川家に移った。
2018.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

齋藤伯耆守(さいとうほうきのかみ)

 生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の弟と伝わる。地元の伝承では、長久が最上義光に討たれた際に、名字を長久の奥方の名字である齋藤に変えたという。文禄年間に義光の四男・山野辺光茂(義忠)に仕え、城代家老となった。
2018.07.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

岩屋朝繁(いわやともしげ)

 生年不明~正保三年(1646) 由利十二頭の一人、岩屋朝盛の子。岩屋楯(由利本荘市岩谷町)の楯主。能登守を称す。名は光繁とも。関ヶ原の戦いにおいて石田三成に通じたとして改易されるが、誤りであることが判明、最上義光の旗下として岩屋楯主に復帰する。最上家改易に伴い所領を没収され、秋田家を頼って常陸に赴いた。
2018.07.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

土屋作之亟(つちやさくのじょう)

 生年不明~没年不明 野辺沢城主・野辺沢康満(光昌)に仕える。当時繁栄を誇った野辺沢銀山の山師頭。最上家改易後も山師頭を務めた。のちに銀山が廃山となったため、子孫は大石田に移転し商人として栄えた。
2018.06.27:mogapro:[▼最上家関連人物]

鈴木光弘(すずきあきひろ)

 生年不明~没年不明 備後守を称す。漆山楯(山形市漆山)の楯主。千五百石を領す。義光分限帳では千石、義俊分限帳では5百石という。山形藩三代藩主・最上家信(義俊)に家老として仕えたとも。最上家改易後は、仙台藩伊達家に仕えた。
2018.06.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]