竹姫(たけひめ)

 天正十二年(1584)~寛永三年(1626) 最上義光の三女。最上家代々の重臣である氏家家に嫁ぐ。はじめ氏家光氏の子である尾張守(名は不詳)に嫁ぐが、若くして亡くなってしまったため、弟の親定に再嫁したという。最上家改易に伴い、夫とともに長州萩にて暮らした。
2017.02.19:mogapro:[ ○息子・娘 ]

駒姫(こまひめ)

 天正七年(1581)~文禄四年(1595) 最上義光の二女。東国一の美少女との評判が高く、時の関白・豊臣秀次が側室に望んだため、京に上ることとなった。京に到着してまもなく、秀次が謀反の疑いにより高野山で自害させられた。秀次の身内一族や近臣も捕らえられ、まだ実質的に側室となる前であった駒姫も処刑された。父・義光の憤りと悲しみは深く、のちに関ヶ原の戦いで徳川家康に味方する一因になったといわれている。
2017.02.16:mogapro:[ ○息子・娘 ]

松尾姫(まつおひめ)

 天正六年(1578)~慶長十一年(1606) 最上義光の長女。義光に対抗していた国人領主連合「天童八楯」の有力武将であった野辺沢満延を懐柔するため、その嫡子又五郎と婚約することとなる。これにより、満延は義光に味方するようになったため天童八楯は瓦解した。のちに野辺沢康満(又五郎)と正式に夫婦となるも、29歳の若さで亡くなったという。
2017.02.13:mogapro:[ ○息子・娘 ]

清水夫人(しみずふじん)

 天正五年(1577)~寛永十五年(1638) 最上義光の継室。清水城主・清水義氏の娘。名はお辰という。義氏の跡を継いだ義光の三男清水光氏にとっては義姉でもある。義光の五男光広、六男光隆、四女禧久姫の生母と考えられ、京や江戸で生活していたと思われる。義光が亡くなると故郷の清水の地に隠棲した。法名を真覚尼といい、最上家改易後も新庄藩主戸沢政盛から手厚く遇されていたという。
2017.02.12:mogapro:[ ○奥方 ]

天童夫人(てんどうふじん)

 生年不明~天正十年(1582) 最上義光の側室。天童城主・天童頼貞の娘。頼貞の跡を継いだ頼久(のち頼澄)の姉。義光は天童氏を中心とした国人領主連合「天童八楯」と争ったが、この女性を側室に迎えて和睦した。天正十年(1582)義光の三男(のちの清水光氏)を生んだが、まもなくして亡くなってしまった。
2017.02.10:mogapro:[ ○奥方 ]

大崎夫人(おおさきふじん)

 生年不明~文禄四年(1595) 最上義光の正室とされる。釈妙英、名は「としよ」とする説も。大崎家11代当主・大崎義直の娘。奥州探題大崎家は、羽州探題最上家の本家にあたる。義光の二女駒姫の生母ではないかと考えられる。最上家が豊臣政権に臣従したのちは、人質として上洛し京で暮らした。駒姫が豊臣秀次事件に連座して処刑されると、そのあとを追うようにして亡くなった。悲しみのあまり、自ら命を絶ったのではないかともいわれている。
2017.02.08:mogapro:[ ○奥方 ]

小野少将の娘(おのしょうしょうのむすめ)

 生年不明~没年不明 最上義光の母については、はっきりしたことが分かっていない。一説には、小野少将の娘で、庄内狩川の出身であるといわれている。また、永甫尼という女性ともされるが、この女性は、義光の父である義守の母、若しくは義守の姉妹ではないかとも考えられるという。慶長八年(1603)義光は山形の千手堂に、年老いた母のために御詠歌の額を奉納したという。
2017.02.03:mogapro:[ ○父・母 ]

大山光隆(おおやまあきたか)

 慶長七年(1602)~寛永二年(1625) 最上義光の六男。内膳正。元和元年(1615)に2万7千石にて庄内大山(尾浦)城主となり、大山姓を名乗った。妻は楯岡満茂の二女である於陳女郎。元和八年(1622)最上家改易により広島藩浅野家に身柄を預けられ、その数年後に死去。
2017.02.02:mogapro:[ ○息子・娘 ]