HOME > ◇最上家家臣団(さ行)
下秀実(しもひでざね)
生年不明~慶長十九年(1614)? 下秀久の子。父と同じく次右衛門を名乗る。父の死後に家督を継ぎ、尾浦城主となる。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され命を落とした。ただし、この時亡くなった次右衛門は秀久であるとの説もあり、実在した人物かどうか疑問が残る。
2017.07.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
下秀久(しもひでひさ)
生年不明~慶長十九年(1614)? 次右衛門。対馬守を称す。名は吉忠とも、のちに康久に改める。上州沼田にて北条家に仕えていたが、北条家の滅亡後は上杉家に仕えて直江兼続の配下に属した。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城(河北町谷地)に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、その功により尾浦城主1万2千石に任じられた。
2017.07.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
斎藤光則(さいとうあきのり)
生年不明~没年不明 谷地城主4千石、のち高擶城主5千5百石となる。伊予守を称す。「太閤より御預け」の記録があり、他家から最上家に身柄を預けられ、のちに家臣として召し抱えられた可能性もある。最上川舟運の発展のため、川の難所を開削する工事の責任者を務め、他国から大勢の石工を呼び寄せ工事を完成させた。このほか新田開発や田畑の検地など内政面で最上義光に重用され、優れた業績を残した。義光の嫡男・最上義康が暗殺された際、義光は光則にこの事件の真相究明を命じたという。
2017.06.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
佐藤憲茂(さとうのりしげ)
生年不明~慶長五年(1600) 理兵衛。樋幡城(山辺町要害)の城主。豊後守を称す。慶長出羽合戦の長谷堂城八幡崎口攻防戦にて戦死。佐藤理兵衛家は西行法師=佐藤義清(さとうのりきよ、憲清とも記される)の親類となる家柄であり、西行が出羽にやってきた際、この佐藤家にしばらく滞在していたとの記録が残っている。
2017.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
里見主水(さとみもんど)
生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の弟。慶長出羽合戦の際、上山方面に押し寄せた上杉軍を兄・民部らとともに奇襲し撃退した。後世の軍記物である「最上記」には2千石を領した里見永水という名が記されており、主水のことではないかと思われる。
2017.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
里見義近(さとみよしちか)
生年不明~慶長十九年(1614) 越後守を称す。最上領と伊達領の境である上山城主の重責を担った。慶長出羽合戦では、軍奉行として山形城に入り、続いて庄内攻略戦でも軍奉行を務めた。その後、最上義康の廃嫡事件に関わり、最上家を退去した。
2017.05.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
坂光吉(さかあきよし)
文禄四年(1595)~延宝八年(1680) 坂光重の嫡男。九郎右衛門。父とは別に140石を給されていた。最上家改易後も長谷堂に居住していたが、寛永十四年(1637)になって、父・光重とともに置賜郡荒砥に移住する。のちに米沢藩上杉家に召し抱えられた。
2017.05.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
坂光重(さかあきしげ)
天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2017.05.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]