HOME >  ◇最上家家臣団(さ行)

坂光秀(さかあきひで)

 生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。最上義光の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2017.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

鮭延左衛門尉(さけのべさえもんのじょう)

 天正十四年(1586)~慶長十七年(1612) 鮭延秀綱の嫡男。名は左右衛門(さえもん)とも。慶長出羽合戦(長谷堂の戦い)にて初陣を飾る。奥羽永慶軍記には、この戦いでの上杉軍本陣に迫る勇猛な活躍ぶりが記されている。一方、鮭延越前守聞書には、敵陣に深入りして散々に攻められ、父・秀綱が助けに入って、一緒になった退いたとある。のちに家督を継ぐことなく、若くして亡くなった。
2017.04.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

進藤安清(しんどうやすきよ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 亀ケ崎城主志村家の家老。但馬守。進藤楯(酒田市中野俣)の楯主。庄内川北地域の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され、主君・志村光惟とともに命を落とした。
2017.04.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

志村光惟(しむらあきただ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 志村光安の子。父の死後に家督を継ぎ、亀ケ崎城主となる。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され命を落とした。
2017.04.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

清水義氏(しみずよしうじ)

 天文十六年(1547)~天正十四年(1586) 最上氏一族の清水氏6代当主。清水城主。永禄八年(1565)に父・清水義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘のお辰は義光の継室(清水夫人)となった。
2016.01.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]