HOME >  ◇最上家家臣団(さ行)

佐竹正勝(さたけまさかつ)

 生年不明~寛永十三年(1636) 金山城主・丹政直の二男。太郎左衛門。母は進藤勘解由左衛門の娘。父の隠居料二百石を継ぎ、近習を務めた。最上家改易後は津軽に移住し、のちに弘前藩津軽家に百石で仕え、名字を進藤に改めた。孫の進藤庄兵衛正次は、弘前藩津軽家家老を務めた。
2019.01.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

東海林成盛(しょうじなりもり)

 生年不明~没年不明 谷地城主・白鳥十郎の重臣。隼人助。名は昌種とも。沼平楯(西川町岩根沢)の楯主。白鳥滅亡の際、白鳥十郎の息女・日吉姫をかくまったが、最上軍の攻撃を受け降伏した。その後は最上家に帰属し、慶長出羽合戦にも参戦、庄内にて奮戦したという。子は昌勝、孫は豊後光勝。
2019.01.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

齋藤忠頼(さいとうただより)

 生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の孫と伝わる。大叔父である齋藤伯耆守の跡を継ぎ、山野辺家の城代家老を務める。最上家改易に際しては主君・山野辺光茂(義忠)に従い、のちに水戸藩徳川家に移った。
2018.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

齋藤伯耆守(さいとうほうきのかみ)

 生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の弟と伝わる。地元の伝承では、長久が最上義光に討たれた際に、名字を長久の奥方の名字である齋藤に変えたという。文禄年間に義光の四男・山野辺光茂(義忠)に仕え、城代家老となった。
2018.07.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

鈴木光弘(すずきあきひろ)

 生年不明~没年不明 備後守を称す。漆山楯(山形市漆山)の楯主。千五百石を領す。義光分限帳では千石、義俊分限帳では5百石という。山形藩三代藩主・最上家信(義俊)に家老として仕えたとも。最上家改易後は、仙台藩伊達家に仕えた。
2018.06.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

志村藤右衛門(しむらとうえもん)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光旗下・五十挺組の足軽大将として谷地城攻めに参陣する。慶長出羽合戦においても義光の旗本衆として、撤退する上杉軍を追撃するが、鉄砲隊の反撃を受け戦死した。
2018.04.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂弥兵衛(さかやひょうえ)

 生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の重臣。1千5百石を領したという。後世の軍記物である「最上記」によると、慶長出羽合戦の際、中山城から上山城攻略に向かった上杉軍の大将・本村造酒丞親盛を物見山の戦いにて討ち取ったという。これにより、上山城攻略の上杉軍別働隊は壊滅し、中山城へ撤退した。
2018.04.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

鈴木治右衛門(すずきじえもん)

 生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。最上家改易により山形を去ったのちも、近江最上家に仕えた。
2018.03.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]