HOME >  ◇最上家家臣団(さ行)

斎藤廣盛(さいとうひろもり)

 永禄十一年(1568)~元和八年(1622) 筑後守を称す。慶長出羽合戦の際は上杉家に仕えており、古口楯や庭月楯を攻め落としたが、関ヶ原における西軍敗北により撤退、酒田城に立て篭って最上軍と戦った。親しかった下対馬守の仲裁により城を明け渡し、下家の治める尾浦城に身を寄せた。その後、最上家の直臣となり、亀ケ崎城主の志村光惟が死去すると、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。のちに里見民部が叛いた際に討手を命ぜられ、その功により褒美を賜ったという。
2017.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下本國(しももとくに)

 生年不明~元和八年(1622) 勘七郎。長門守を称す。下秀久の弟である伊井忠左衛門の子。伯父・秀久の養子となる。慶長出羽合戦ののち、秀久とともに最上家に仕え1千石を領す。秀久が一栗兵部の乱にて討死、その後、訳あって最上家を離れたという。のちに越後村上藩村上家、続いて新発田藩溝口家に仕えた。
2017.07.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀政(しもひでまさ)

 生年不明~没年不明 源六郎。美作守を称す。上州江本城代であった江本大膳の子。下秀久の養子となる。慶長出羽合戦ののち、秀久とともに最上家に仕え1千石を領す。最上家改易後は、米沢藩上杉家に仕えた。
2017.07.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀実(しもひでざね)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 下秀久の子。父と同じく次右衛門を名乗る。父の死後に家督を継ぎ、尾浦城主となる。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され命を落とした。ただし、この時亡くなった次右衛門は秀久であるとの説もあり、実在した人物かどうか疑問が残る。
2017.07.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀久(しもひでひさ)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 次右衛門。対馬守を称す。名は吉忠とも、のちに康久に改める。上州沼田にて北条家に仕えていたが、北条家の滅亡後は上杉家に仕えて直江兼続の配下に属した。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城(河北町谷地)に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、その功により尾浦城主1万2千石に任じられた。
2017.07.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

斎藤光則(さいとうあきのり)

 生年不明~没年不明 谷地城主4千石、のち高擶城主5千5百石となる。伊予守を称す。「太閤より御預け」の記録があり、他家から最上家に身柄を預けられ、のちに家臣として召し抱えられた可能性もある。最上川舟運の発展のため、川の難所を開削する工事の責任者を務め、他国から大勢の石工を呼び寄せ工事を完成させた。このほか新田開発や田畑の検地など内政面で最上義光に重用され、優れた業績を残した。義光の嫡男・最上義康が暗殺された際、義光は光則にこの事件の真相究明を命じたという。
2017.06.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

佐藤憲茂(さとうのりしげ)

 生年不明~慶長五年(1600) 理兵衛。樋幡城(山辺町要害)の城主。豊後守を称す。慶長出羽合戦の長谷堂城八幡崎口攻防戦にて戦死。佐藤理兵衛家は西行法師=佐藤義清(さとうのりきよ、憲清とも記される)の親類となる家柄であり、西行が出羽にやってきた際、この佐藤家にしばらく滞在していたとの記録が残っている。
2017.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

里見主水(さとみもんど)

 生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の弟。慶長出羽合戦の際、上山方面に押し寄せた上杉軍を兄・民部らとともに奇襲し撃退した。後世の軍記物である「最上記」には2千石を領した里見永水という名が記されており、主水のことではないかと思われる。
2017.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]