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小野少将の娘(おのしょうしょうのむすめ)

 生年不明~没年不明 最上義光の母については、はっきりしたことが分かっていない。一説には、小野少将の娘で、庄内狩川の出身であるといわれている。また、永甫尼という女性ともされるが、この女性は、義光の父である義守の母、若しくは義守の姉妹ではないかとも考えられるという。慶長八年(1603)義光は山形の千手堂に、年老いた母のために御詠歌の額を奉納したという。
2017.02.03:mogapro:[ ○父・母 ]

大山光隆(おおやまあきたか)

 慶長七年(1602)~寛永二年(1625) 最上義光の六男。内膳正。元和元年(1615)に2万7千石にて庄内大山(尾浦)城主となり、大山姓を名乗った。妻は楯岡満茂の二女である於陳女郎。元和八年(1622)最上家改易により広島藩浅野家に身柄を預けられ、その数年後に死去。
2017.02.02:mogapro:[ ○息子・娘 ]

上山光広(かみのやまあきひろ)

 慶長四年(1599)~寛永四年(1627) 最上義光の五男。のち義直(よしなお)。元和二年(1616)に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により福岡藩黒田家に預けられ、数年後に自害したといわれる。
2017.01.30:mogapro:[ ○息子・娘 ]

山野辺光茂(やまのべあきしげ)

 天正十六年(1588)~寛文四年(1664) 最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺家の名跡を継ぎ、山野辺城主となった。山野辺の城下町整備や治水事業を行うなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年ゆえに国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も岡山池田家に預けられた。のちに水戸藩の家老となり、徳川(水戸)光圀の教育係を務めた。
2017.01.28:mogapro:[ ○息子・娘 ]

清水光氏(しみずあきうじ)

 天正十年(1582)~慶長十九年(1614) 最上義光の三男。義親(よしちか)、氏満(うじみつ)とも。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継いで清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦い、その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたことから、大坂の役に際して豊臣方への内通を疑われたという。このため兄の最上家親により清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
2017.01.27:mogapro:[ ○息子・娘 ]

最上義康(もがみよしやす)

 天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり 最上義光の嫡男。慶長出羽合戦の際には、父の命を受け伊達政宗のもとへ救援要請に赴き、援軍派遣を了承された。従兄弟の政宗とは仲が良かったと伝わる。上杉軍への追撃戦では、最前線で戦い苦境に陥っていた義光を救う活躍をした。もともと父とは良好な関係であったが、家臣の讒言や弟・家親と徳川家康との関係などから疎遠となり、義光から高野山への退去を命ぜられた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に撃たれ負傷し、自刃した。
2017.01.24:mogapro:[ ○息子・娘 ]

最上家信(もがみいえのぶ)

 慶長十年(1605)~寛永八年(1631) 最上家13代当主。最上家親の嫡男。父の急死により13歳で家督を継ぐ。年若く、国政を執るには力不足だったため、家臣団の間では叔父の山野辺光茂(義忠)を擁立する動きが広がり、最上家中は家信擁護派と光茂擁立派に分かれ騒動となった。幕府が介入して取り成しを図ったが、重臣達はこれを受け入れず、国の仕置きができないとして改易された。改易後、名を義俊(よしとし)に改めた。
2017.01.22:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上家親(もがみいえちか)

 天正十年(1582)~元和三年(1617) 最上家12代当主。最上義光の二男。父の命により徳川家康に近侍し、家康の「家」の字を賜り家親と名乗った。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って上田城攻めに参加した。慶長十九年(1614)に父・義光が病死するとその跡を継ぐ。大坂の役の直前、大坂方に内通の疑いがあったという弟の清水光氏を攻めて自刃させ、大坂の役では、江戸城の留守居役を務めた。元和三年(1617)に36歳の若さで急病死した。
2017.01.20:mogapro:[ ○息子・娘 ]