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里見民部(さとみみんぶ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 里見義近の子。上山城主。慶長出羽合戦では、上山城攻略に向かう上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。その後、最上義康の廃嫡事件に関わり、最上家を退去。加賀前田家などへの仕官を妨害され、各地を流浪した末に出羽に戻り、尾浦城主・下吉忠に預けられた。しかし、将来に禍根を残すとして、義近、民部、民部の子の権兵衛など主従23名が切腹させられた。
2017.05.28:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

里見義近(さとみよしちか)

 生年不明~慶長十九年(1614) 越後守を称す。最上領と伊達領の境である上山城主の重責を担った。慶長出羽合戦では、軍奉行として山形城に入り、続いて庄内攻略戦でも軍奉行を務めた。その後、最上義康の廃嫡事件に関わり、最上家を退去した。
2017.05.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

堀喜吽(ほりきうん)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死。この時、義光自身も兜に銃弾を受けた。
2017.05.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

向田光之(むかいだあきゆき)

 生年不明~慶長五年(1600) 八郎左衛門。最上義光から畑谷城救援のため派遣されるが、途中で畑谷城落城の知らせを聞き、この事を義光に知らせるため引き返した。その後、鬼越の地まで戻ってきた時、霞で煙った山形城が見え、これを山形城も落城したものと勘違いし、その場で自刃してしまったという。
2017.05.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(ま行)]

坂光吉(さかあきよし)

 文禄四年(1595)~延宝八年(1680) 坂光重の嫡男。九郎右衛門。父とは別に140石を給されていた。最上家改易後も長谷堂に居住していたが、寛永十四年(1637)になって、父・光重とともに置賜郡荒砥に移住する。のちに米沢藩上杉家に召し抱えられた。
2017.05.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光重(さかあきしげ)

 天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2017.05.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

坂光秀(さかあきひで)

 生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。最上義光の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2017.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

飯田播磨守(いいだはりまのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 名は信兼(のぶかね)か。天童八楯のひとつで、飯田楯(村山市本飯田)を本拠地としていたが、移封となり、新たに飯田楯(山形市飯田)を築いたという。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
2017.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]