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一栗高春(ひとつくりたかはる)

 生年不明~慶長十九年(1614) 豊後守、のち兵部を称す。名は隆春とも。大崎家旧臣で玉造郡一栗城主を務めた。葛西・大崎一揆では、伊達政宗率いる鎮圧軍を相手に奮戦し、徹底抗戦を貫いた。戦後は出羽に落ち延びて最上義光に仕え、田川郡添川楯主、また鶴ケ岡城番を務めたという。義光が亡くなり最上家親が家督を継ぐと、これに異を唱え、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟と大山(尾浦)城主の下次右衛門を襲撃して殺害、添川楯に立て篭るも鎮圧され討死したという。
2017.07.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

和田正直(わだまさなお)

 生年不明~正保元年(1644) 和田正盛の子。左衛門、のち七郎右衛門。最上義光に小姓組として仕え390石を賜る。一栗兵部の乱にて父の正盛は奮戦して討死するが、正直の妻が一栗兵部の娘であったために父の遺領を継ぐことができなかった。元和六年の江戸城の普請手伝いでは惣奉行に任じられた。最上家改易により浪人となるが、庄内藩酒井家に400石で召し抱えられ足軽頭となった。
2017.07.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(わ行)]

和田正盛(わだまさもり)

 生年不明~慶長十九年(1614) 越中守。もと上杉憲政の家臣で上州下城主を務めた。兄の和田業繁とともに武田信玄に降伏、武田家滅亡後は北条家、上杉家に仕えた。慶長出羽合戦ののち上杉家を離れて最上家に仕え、2千8百石にて鶴ケ岡城番を務めた。一栗兵部の乱においては、家臣36名を率いて鶴ケ岡城に入り防戦、大手門にて討死した。
2017.07.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(わ行)]

原頼秀(はらよりひで)

 生年不明~没年不明 尾浦城主下家の家老。八左衛門。美濃守を称す。下本國の伯母婿(下秀久の姉妹の婿?)という。庄内川南地域の検地を行うなど、庄内支配の実務を担当した。下家が断絶したのちも鶴岡に留まり、庄内川南二郡の郡代を務めたとされる。
2017.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

下本國(しももとくに)

 生年不明~元和八年(1622) 勘七郎。長門守を称す。下秀久の弟である伊井忠左衛門の子。伯父・秀久の養子となる。慶長出羽合戦ののち、秀久とともに最上家に仕え1千石を領す。秀久が一栗兵部の乱にて討死、その後、訳あって最上家を離れたという。のちに越後村上藩村上家、続いて新発田藩溝口家に仕えた。
2017.07.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀政(しもひでまさ)

 生年不明~没年不明 源六郎。美作守を称す。上州江本城代であった江本大膳の子。下秀久の養子となる。慶長出羽合戦ののち、秀久とともに最上家に仕え1千石を領す。最上家改易後は、米沢藩上杉家に仕えた。
2017.07.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀実(しもひでざね)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 下秀久の子。父と同じく次右衛門を名乗る。父の死後に家督を継ぎ、尾浦城主となる。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて襲撃され命を落とした。ただし、この時亡くなった次右衛門は秀久であるとの説もあり、実在した人物かどうか疑問が残る。
2017.07.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

下秀久(しもひでひさ)

 生年不明~慶長十九年(1614)? 次右衛門。対馬守を称す。名は吉忠とも、のちに康久に改める。上州沼田にて北条家に仕えていたが、北条家の滅亡後は上杉家に仕えて直江兼続の配下に属した。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城(河北町谷地)に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、その功により尾浦城主1万2千石に任じられた。
2017.07.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]