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寒河江廣俊(さがえひろとし)
生年不明~慶長十九年(1614) 寒河江廣秋の子。山野辺城2万7千石を領したと伝わる。肥前守を称す。一説には、中野の安楽寺という寺の小僧だったが、最上義光に見込まれて出世し、寒河江の名字と1万5千石を賜ったという。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
寒河江光俊(さがえあきとし)
生年不明~没年不明 寒河江城主大江氏(寒河江氏)の一族。外記を称す。天正十二年(1584)の最上義光による寒河江攻めののち寒河江城主に任じられたという。天正十六年(1588)の上杉家臣・本庄繁長による庄内侵攻を不当であると豊臣秀吉に訴えるため派遣されたほか、翌年、徳川家康が義光に上洛を勧めた際には、家康のもとに鷹三羽を持って弁明に赴いたという。太閤検地により起きた小野寺領内の一揆を鮭延秀綱らとともに鎮圧、由利十二頭の平定にも功があった。
2017.08.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
東根親宜(ひがしねちかのり)
生年不明~寛永三年(1663) 東根景佐の子。父と同じく源右衛門を名乗る。最上義光の四女・禧久姫を娶った。父の跡を継いで東根城1万2千石を領す。城主となって間もない元和八年(1622)に最上家が改易となり、徳島藩蜂須賀家に預けられた。のちに蜂須賀家から千石の知行を与えられ、中老の職に任ぜられた。
2017.08.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]
東根景佐(ひがしねかげより)
生年不明~元和六年(1620) 本姓は里見氏。源右衛門。薩摩守を称す。妻の実家は小国日向家であるという。東根城1万2千石を領す。もとは東根城主の東根頼景(天童城主・天童頼澄の弟)の重臣であったが、最上義光に内応し、頼景に代わって城主となったという。その後は、最上家の上級城持家臣の一人として活躍した。
2017.08.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]
小国元俊(おぐにもととし)
生年不明~寛永十四年(1637) 小国親元の子。母は日野薩摩守の娘、妻は高井淡路守親重の娘。父・親元と同じく西監物を称す。最上家改易後、岳父・親重と弟二人らとともに出羽仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、秋田藩佐竹家に仕官を果たす。佐竹家には東西南北の御一門四家があったことから、西野と称するようになったという。
2017.08.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
小国親元(おぐにちかもと)
生年不明~没年不明 倉津守俊の二男。小国光基の弟。5百石を領す。妻は山野辺城主・日野薩摩守の娘という。兄・光基の館の西側に住んでいたことから、一族家来に西殿と呼ばれ、西監物と称した。
2017.07.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
小国大膳(おぐにだいぜん)
生年不明~寛永元年(1624) 小国光基の子。大膳亮。名は親景か。父・光基に最上義光の妹が嫁いだとの話があり、義光の甥である可能性もある。倉津(蔵増)城主を務めたと伝わる。慶長出羽合戦では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。最上家改易により、父・光基、子・源三郎とともに佐賀藩鍋島家に預けられた。
2017.07.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
小国光基(おぐにあきもと)
生年不明~寛永八年(1631) 倉津守俊の子。最上義光から小国郷を賜り、小国氏を称した。小国城(最上町本城)8千石の城主。日向守を称す。名は光忠、親信とも。義光の妹婿との説もある。鉄砲に関心を持ち、鉄砲鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄砲を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。
2017.07.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]