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最上満家(もがみみついえ)

 生年不明~嘉吉三年(1443)? 最上家4代当主。最上満直の嫡男。父から家督を譲られ山形城主となる。正室は寒河江氏の娘という。のちに山形城を去って長瀞城(東根市長瀞)に隠棲した。菩提寺は長瀞の禅会寺。没年については応永三十二年(1425)説もある。
2017.01.06:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上満直(もがみみつなお)

 生年不明~応永二十年(1413)? 最上家3代当主。最上直家の嫡男。応永七年(1400)父から家督を譲られ山形城主となる。正室は蘆名詮盛の娘。二男・満基は中野(山形市大郷)、三男・満頼は大久保(村山市大久保)、四男・満国は楯岡(村山市楯岡)にそれぞれ城を構えた。菩提寺は法祥寺(山形市七日町)である。没年については応永二十三年(1416)と応永三十一年(1424)説もある。
2017.01.04:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

最上直家(もがみなおいえ)

 生年不明~応永十七年(1410) 最上家2代当主。斯波兼頼の嫡男。永和元年(1375)父から家督を譲られ山形城主となる。正室は伊達宗遠の娘。屋形号(最上屋形)を称することを許され「十六葉八重菊紋」と「五七桐紋」を賜った。息子が6人おり二男・頼直に天童家を継がせるなど、各地に配置して最上家の支配体制を固めた。菩提寺は金勝寺(山形市山家本町)である。
2017.01.03:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

斯波兼頼(しばかねより)

 正和五年(1316)~康暦元年(天授五年/1379) 奥州管領・斯波家兼の二男。羽州探題最上家の初代当主。延文元年(1356)41歳のときに山形に入部し、翌年に山形城を築いた。従四位下出羽守に任ぜられ、出羽管領・国司・按察使将軍に補されたという。兄の斯波直持は奥州管領を継ぎ、奥州探題大崎家の初代となった。山寺立石寺、宝憧寺、千手堂吉祥院、六椹八幡神社など多くの寺社の再建に努め、民心の安定を図った。晩年は他阿元愚(たあがんぐ)大和尚に帰依して時宗の僧となり、其阿(ごあ)の法名を名乗った。嫡男の直家に家督を譲ると、山形城内に草庵を結んで信仰生活を送り、この草庵がのちに光明寺となった。
2017.01.02:mogapro:[ ◎最上家歴代当主 ]

清水義氏(しみずよしうじ)

 天文十六年(1547)~天正十四年(1586) 最上氏一族の清水氏6代当主。清水城主。永禄八年(1565)に父・清水義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘のお辰は義光の継室(清水夫人)となった。
2016.01.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

米券法(こめけんほう)

 最上義光が制定した米穀管理に関する定め。 藩が管理する米蔵に年貢米を納入させ、これに対して「米札」を発行。藩士の扶持米や藩が販売した米などを、現物の米ではなく米札で与え、その所有者が藩の米蔵に出向くと、米札と引き替えに現物の米を出してもらうことができた。 米札は藩の管理する米の信用力を基にした小切手のようなもの。現物取引がないため、米の売買が容易になり、流通が活性化する効果があった。
2015.02.01:mogapro:[▼最上家用語の基礎知識]

最上義光の功績

 最上川中流域である最上郡と村山郡を統一し、関ヶ原の戦い後は庄内三郡と由利郡を加増され、57万石の大大名となる。奥羽地方で最大、東日本においても江戸城に次ぐ広さを誇るといわれる山形城とその城下町の整備、最上川三難所の開削、湊町酒田の整備、庄内平野の灌漑事業などを行い、現代につながる山形の繁栄の基礎を築いた。▼農業分野における功績 庄内平野の灌漑事業として北楯大堰や因幡堰などの開削を命じた。それまで広大な原野が広がっていた地域での稲作が可能となり、庄内平野を日本有数の米どころへと導いた。また、のちに最上地域の特産品となる紅花の栽培を奨励した。▼商業・流通分野における功績 山形城下に二日町から十日町までの商人町(市日町)を整備した。最上川三難所を開削して舟運による大量物資輸送を可能にした。物流の拠点として湊町酒田や大石田河岸を発展させ、米券法を制定して米穀の管理と流通の促進を図った。▼工業分野における功績 山形城下に檜物町、塗師町、桶町、銀町、蝋燭町、材木町などの職人町を整備した。徳川家康に賞賛された最上蝋燭が特産品となったほか、山形鋳物や山形仏壇などの伝統的工芸品の発展を促した。▼観光分 ...続きを見る
2015.02.01:mogapro:[ □最上義光の功績]

異名その3 羽州の狐(うしゅうのきつね)

 昭和五十年(1975)に発行された日本の歴史文庫9「戦国の武将」(講談社:佐々木銀弥氏著)の「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」という記述が初出といわれている。この「狐」という表現がのちの書籍等でも紹介されるなどして、世間一般に広まったという。 ネガティブなイメージをもって「狐」と表現したものであり、地元山形においては拒否的な傾向がある。 参考:最上義光歴史館 http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=87187
2015.01.01:mogapro:[▼最上義光]