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義姫(よしひめ)

 天文十七年(1548)~元和九年(1623) 最上義守の長女。17歳で伊達輝宗に嫁ぐ。お東の方。伊達政宗の母。兄・最上義光が政宗を攻めようとした際には、戦場に輿で乗り付けて停戦を訴え、ついには義光が折れて和睦に至っている。文禄三年(1594)岩出山から実家である山形に戻った。義光が直江兼続率いる上杉軍に攻められた際には、政宗に援軍を催促する書状を送った。最上家が改易されると、仙台に引き取られた。
2017.02.22:mogapro:[ ○弟・妹 ]

禧久姫(きくひめ)

 生年不明~寛文四年(1664) 最上義光の四女。最上家家臣で東根城主・東根景佐の嫡男・親宜に嫁ぐ。最上家改易に伴い、夫とともに徳島にて暮らした。
2017.02.21:mogapro:[ ○息子・娘 ]

竹姫(たけひめ)

 天正十二年(1584)~寛永三年(1626) 最上義光の三女。最上家代々の重臣である氏家家に嫁ぐ。はじめ氏家光氏の子である尾張守(名は不詳)に嫁ぐが、若くして亡くなってしまったため、弟の親定に再嫁したという。最上家改易に伴い、夫とともに長州萩にて暮らした。
2017.02.19:mogapro:[ ○息子・娘 ]

駒姫(こまひめ)

 天正七年(1581)~文禄四年(1595) 最上義光の二女。東国一の美少女との評判が高く、時の関白・豊臣秀次が側室に望んだため、京に上ることとなった。京に到着してまもなく、秀次が謀反の疑いにより高野山で自害させられた。秀次の身内一族や近臣も捕らえられ、まだ実質的に側室となる前であった駒姫も処刑された。父・義光の憤りと悲しみは深く、のちに関ヶ原の戦いで徳川家康に味方する一因になったといわれている。
2017.02.16:mogapro:[ ○息子・娘 ]

松尾姫(まつおひめ)

 天正六年(1578)~慶長十一年(1606) 最上義光の長女。義光に対抗していた国人領主連合「天童八楯」の有力武将であった野辺沢満延を懐柔するため、その嫡子又五郎と婚約することとなる。これにより、満延は義光に味方するようになったため天童八楯は瓦解した。のちに野辺沢康満(又五郎)と正式に夫婦となるも、29歳の若さで亡くなったという。
2017.02.13:mogapro:[ ○息子・娘 ]

清水夫人(しみずふじん)

 天正五年(1577)~寛永十五年(1638) 最上義光の継室。清水城主・清水義氏の娘。名はお辰という。義氏の跡を継いだ義光の三男清水光氏にとっては義姉でもある。義光の五男光広、六男光隆、四女禧久姫の生母と考えられ、京や江戸で生活していたと思われる。義光が亡くなると故郷の清水の地に隠棲した。法名を真覚尼といい、最上家改易後も新庄藩主戸沢政盛から手厚く遇されていたという。
2017.02.12:mogapro:[ ○奥方 ]

天童夫人(てんどうふじん)

 生年不明~天正十年(1582) 最上義光の側室。天童城主・天童頼貞の娘。頼貞の跡を継いだ頼久(のち頼澄)の姉。義光は天童氏を中心とした国人領主連合「天童八楯」と争ったが、この女性を側室に迎えて和睦した。天正十年(1582)義光の三男(のちの清水光氏)を生んだが、まもなくして亡くなってしまった。
2017.02.10:mogapro:[ ○奥方 ]

大崎夫人(おおさきふじん)

 生年不明~文禄四年(1595) 最上義光の正室とされる。釈妙英、名は「としよ」とする説も。大崎家11代当主・大崎義直の娘。奥州探題大崎家は、羽州探題最上家の本家にあたる。義光の二女駒姫の生母ではないかと考えられる。最上家が豊臣政権に臣従したのちは、人質として上洛し京で暮らした。駒姫が豊臣秀次事件に連座して処刑されると、そのあとを追うようにして亡くなった。悲しみのあまり、自ら命を絶ったのではないかともいわれている。
2017.02.08:mogapro:[ ○奥方 ]