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倉津守俊(くらつもりとし)

 生年不明~没年不明 倉津(蔵増)城(天童市蔵増)の城主。安房守を称す。名は親俊とも。もとは天童家家臣であったが、天正十二年(1584)の最上義光による天童城攻略戦より以前に最上家に与するようになったと考えられる。義光が天童頼久の岳父である細川直元の領する小国郷を攻めた際、万騎ヶ原の戦いにて戦功をあげ、守俊の子・光基に小国郷が与えられた。
2017.07.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

武久昌勝(たけひさまさかつ)

 元亀三年(1572)?~承応三年(1655) 庄兵衛。近江国の生まれ。父・弥次郎は六角義賢に仕えていたが、織田信長との戦いで討死。まだ幼かった昌勝は、縁を頼って出羽に来て、やがて最上義光に5百石で仕えるようになった。大坂の陣では、江戸城留守居役であった最上家親から派遣されて参陣、その際の戦功により5百石を加増され、合計1千石となった。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えたのち、小浜藩酒井家に仕えた。現在、国宝に指定されている「伴大納言絵巻」は、最上家より昌勝が賜ったものといわれており、現在は出光美術館に所蔵されている。
2017.07.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

小野寺道元(おのでらみちもと)

 永禄三年(1560)~寛永九年(1632) 刑部を称す。上州厩橋の生まれ。北条家、武田家、真田家、上杉家を渡り歩き、数々の戦功があった。慶長出羽合戦ののちに最上家に仕え、鉄砲奉行を務めた。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、最後は徳川忠長に仕えた。
2017.07.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

高橋伊賀守(たかはしいがのかみ)

 生年不明~正保元年(1644) 亀ケ崎城代・川北三奉行の一人。最上家改易に際し、最上家中から武勇の士として選ばれた七人のうちの一人といい、徳川忠長に仕えた。屋敷のあったところは酒田町代官所(のち酒田町奉行所)となった。(酒田市本町)
2017.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

寺内近江守(てらうちおうみのかみ)

 生年不明~没年不明 元和二年頃、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人であった安部越中守の後任となった。以降、最上家改易まで川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となる。屋敷のあったところは近江町と呼ばれた。(酒田市旧近江町)
2017.07.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

安部越中守(あべえっちゅうのかみ)

 生年不明~元和元年(1615)? 亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟が、慶長十九年(1614)に起きた一栗兵部の乱で死去すると、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともに亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。奉行となって間もなく死去したと思われ、寺内近江守が後任となった。
2017.07.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

斎藤親盛(さいとうちかもり)

 慶長八年(1603)~延宝二年(1674) 斎藤廣盛の子。清三郎。母は東禅寺勝正の妹という。最上家親に近侍して偏諱を賜り、親盛と名乗った。最上家改易後、父とともに越後に赴くが、そこで父は急死してしまったため、親盛は江戸に出て医者になったという。文学の才能があり、如儡子の号で仮名草子の傑作とされる「可笑記」等を発表した。
2017.07.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

斎藤廣盛(さいとうひろもり)

 永禄十一年(1568)~元和八年(1622) 筑後守を称す。慶長出羽合戦の際は上杉家に仕えており、古口楯や庭月楯を攻め落としたが、関ヶ原における西軍敗北により撤退、酒田城に立て篭って最上軍と戦った。親しかった下対馬守の仲裁により城を明け渡し、下家の治める尾浦城に身を寄せた。その後、最上家の直臣となり、亀ケ崎城主の志村光惟が死去すると、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。のちに里見民部が叛いた際に討手を命ぜられ、その功により褒美を賜ったという。
2017.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]