天正五年(1577)?~寛文六年(1666)?
将監を称す。岩波楯(山形市岩波)3千石を領したと伝わる。慶長十九年(1614)、最上家親の命により最上義光三男(家親の弟)清水光氏を攻めて自害させた。義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、実質的には光綱が管理するところとなり、新庄(新城)沼田城主となった。最上家改易後は、津藩藤堂家に預けられた。