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安恵重近(やすえしげちか)

 生年不明~寛文七年(1667) 安食光信の子という。治右衛門。伊賀衆を率いて最上義光に仕え、150石を領した。山形城下にはかつて諜報や火防の任にあたる伊賀衆が住んでいた町があり、伊賀町と呼ばれていた。(現在の山形市宮町5丁目付近)
2017.09.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

安食信重(あじきのぶしげ)

 慶長十八年(1613)~延宝五年(1677) 安食光信の子。七兵衛。藤次郎や太兵衛とも名乗る。父の死後、幼くして家督を相続したものと思われる。最上家改易により浪人するが、南光坊天海の助力により水戸藩徳川家に仕えた。
2017.09.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

安食光信(あじきあきのぶ)

 生年不明~元和三年(1617) 大和守を称す。中里楯(山形市中里)の楯主、のちに土生田城(村山市土生田)の城主を務めたという。また、義光分限帳によれば、元は成澤城(山形市蔵王成沢)の城主で5千石を領していたという。伊達軍と蘆名軍が戦った摺上原の戦いに、伊達軍への援軍として派遣され、百余騎を率いて伊達政宗の陣に加わったと伝わる。
2017.09.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

東禅寺勝正(とうぜんじかつまさ)

 天文十五年(1546)~天正十六年(1588) 東禅寺氏永の弟。右馬頭を称す。兄・氏永とともに大宝寺義興を討ち、尾浦城主を務めたという。十五里ヶ原の戦いに出陣するが、本庄繁長率いる上杉軍に敗北。氏永の戦死を知るや、一矢報いんとして繁長の本陣に潜入。繁長に斬りかかったが、兜を傷つけるに留まり、その場で斬殺された。この時、勝正が手にしていた正宗の名刀は、のちに「本庄正宗」と呼ばれた。
2017.09.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

東禅寺氏永(とうぜんじうじなが)

 天文十三年(1544)~天正十六年(1588) 名は義長とも。はじめ前森蔵人と名乗っていた。庄内地方を領有していた大宝寺義氏の妹婿であったが、義氏の度重なる外征に不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。このとき庄内の国人領主らはみな氏永に同調したという。大宝寺氏は義氏の弟・大宝寺義興(丸岡兵庫)が跡を継ぎ、上杉家重臣・本庄繁長の子を養子(大宝寺義勝)に迎えて上杉家との結びつきを強めた。天正十五年(1587)再び大宝寺氏と対立し、氏永は最上義光から援軍を得て義興を討った。しかし翌年、本庄繁長は実子の大宝寺義勝とともに庄内に侵攻、氏永はこれを迎え撃つが大敗、戦死した(十五里ヶ原の戦い)。
2017.09.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

中山朝正(なかやまともまさ)

 生年不明~没年不明 中山朝政の子。父の跡を継いで長崎城主となる。名は光直とも。播磨守あるいは駿河守を称す。のちに最上家親が駿河守に叙任したため、父と同じ玄蕃頭を称した。はじめ大江氏(寒河江氏)に属していたが、大江氏が滅ぶと最上義光に臣従し、そのまま長崎城主7千石に任じられた。義光が庄内地方を勢力下においた際には、尾浦城(鶴岡市大山)の城代として派遣され統治に当たったが、上杉家家臣・本庄繁長の庄内侵攻に敗れ、山形城に撤退した。その後も義光の側近として活躍、慶長出羽合戦の際は、寒河江城あるいは長崎城を守備したという。
2017.09.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

中山朝政(なかやまともまさ)

 永正十三年(1516)~天正十一年(1583) 長崎城(中山町長崎)の城主。玄蕃頭を称す。大江氏(寒河江氏)に仕えていた。一時期、渋谷懐良に占拠されていた長崎城を奪回した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていたという。
2017.09.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

山家主計(やんべかずえ)

 生年不明~没年不明 山家河内守の子という。本城豊前守満茂の家来衆の中にその名がみえる。最上家改易後は、満茂に従って前橋藩酒井家に仕え、200石あるいは250石を領した。
2017.08.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]