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清水夫人(しみずふじん)

 天正五年(1577)~寛永十五年(1638) 最上義光の継室。清水城主・清水義氏の娘。名はお辰という。義氏の跡を継いだ義光の三男清水光氏にとっては義姉でもある。義光の五男光広、六男光隆、四女禧久姫の生母と考えられ、京や江戸で生活していたと思われる。義光が亡くなると故郷の清水の地に隠棲した。法名を真覚尼といい、最上家改易後も新庄藩主戸沢政盛から手厚く遇されていたという。
2017.02.12:mogapro:[ ○奥方 ]

天童夫人(てんどうふじん)

 生年不明~天正十年(1582) 最上義光の側室。天童城主・天童頼貞の娘。頼貞の跡を継いだ頼久(のち頼澄)の姉。義光は天童氏を中心とした国人領主連合「天童八楯」と争ったが、この女性を側室に迎えて和睦した。天正十年(1582)義光の三男(のちの清水光氏)を生んだが、まもなくして亡くなってしまった。
2017.02.10:mogapro:[ ○奥方 ]

大崎夫人(おおさきふじん)

 生年不明~文禄四年(1595) 最上義光の正室とされる。釈妙英、名は「としよ」とする説も。大崎家11代当主・大崎義直の娘。奥州探題大崎家は、羽州探題最上家の本家にあたる。義光の二女駒姫の生母ではないかと考えられる。最上家が豊臣政権に臣従したのちは、人質として上洛し京で暮らした。駒姫が豊臣秀次事件に連座して処刑されると、そのあとを追うようにして亡くなった。悲しみのあまり、自ら命を絶ったのではないかともいわれている。
2017.02.08:mogapro:[ ○奥方 ]
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