HOME >  ◇最上家家臣団(か行)

近藤壱岐守(こんどういきのかみ)

 生年不明~没年不明 2千5百石を領す。最上義光は山形城三の丸の十一口にそれぞれ重臣を配置して防衛を固めた。このうち、山形城西方の小田口に配されたのが近藤壱岐守である。小田口には当時最も重要とされた煙硝庫(火薬庫)があり、その守護神として財部稲荷大明神が奉られた。後世の軍記物である「最上記」には進藤壹岐守と記載されている。
2018.01.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

糟谷延元(かすやのぶもと)

 生年不明~没年不明 野辺沢(延沢)城主・野辺沢家の重臣。出雲守を称す。岩手県指定文化財「漆塗曵馬絵馬」(岩手県陸前高田市の観音寺所蔵)に、「奉納絵馬」「所願成就」「慶長七年(1602)壬刀(寅)六月十七日」「糟谷出雲守延元」の銘が残されている。
2017.11.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

木戸周防守(きどすおうのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 清水城主・清水氏の重臣。馬上衆で筆頭家老であったと伝わる。八向楯(新庄市本合海)の楯主として1千石を領す。熊野楯(鮭川村佐渡)の楯主であったとも伝えられている。
2017.10.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

倉津守俊(くらつもりとし)

 生年不明~没年不明 倉津(蔵増)城(天童市蔵増)の城主。安房守を称す。名は親俊とも。もとは天童家家臣であったが、天正十二年(1584)の最上義光による天童城攻略戦より以前に最上家に与するようになったと考えられる。義光が天童頼久の岳父である細川直元の領する小国郷を攻めた際、万騎ヶ原の戦いにて戦功をあげ、守俊の子・光基に小国郷が与えられた。
2017.07.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館正久(きただてまさひさ)

 生年不明~没年不明 北館利長の子。助次郎。最上家改易により浪人となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられた。このとき父の利長にも仕官の話があったが、高齢を理由に辞退したという。
2017.06.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

北館利長(きただてとしなが)

 天文十七年(1548)~寛永二年(1625) 大学助。慶長出羽合戦の後、庄内が最上領となると狩川城(庄内町狩川)の城主に任じられ、広大な原野であった庄内平野を水田とすべく、長年に渡って現地の調査を行った。結果、立谷沢川から堰を掘って水を引くしかないとの結論に達し、この事を主君である最上義光に提案した。一部の家臣からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で延長10キロメートルを超える堰を完成させた。この堰は、北楯大堰と呼ばれ、現在も庄内平野を潤しており、利長は水神様として、北舘神社にまつられている。
2017.06.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

川熊壱岐守(かわくまいきのかみ)

 生年不明~没年不明 大崎家旧臣。大崎家改易後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、小国大膳、谷地森伯耆守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。
2017.06.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

草刈虎之助(くさかりとらのすけ)

 生年不明~天正十六年(1588) 天童衆か。中山朝正らとともに庄内地方統治のため派遣される。十五里ヶ原の戦いでは本庄繁長率いる上杉軍を迎え撃った。東禅寺氏永が戦死し、敗色濃厚となるなか、一歩も退かずに奮戦したという。最上勢がことごとく討たれると、最期は千安川べりにて自害した。その地には草岡八幡が建てられ、虎之助が祀られている。
2017.05.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]