天正十七年(1589)~寛文十二年(1672)
長瀞義保の子。備前守。白岩光広。白岩行広とも。数え3歳で父を亡くしたため、最上義光が息子同様にして育てたという。白岩備前守広教の養子となり、白岩氏を継いで白岩城主となった。元和元年(1615)松根城(鶴岡市松根)を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を柳川藩立花家へ配流する処分を下した。