HOME >  ◇最上家家臣団(は行)

東根親宜(ひがしねちかのり)

 生年不明~寛永三年(1663) 東根景佐の子。父と同じく源右衛門を名乗る。最上義光の四女・禧久姫を娶った。父の跡を継いで東根城1万2千石を領す。城主となって間もない元和八年(1622)に最上家が改易となり、徳島藩蜂須賀家に預けられた。のちに蜂須賀家から千石の知行を与えられ、中老の職に任ぜられた。
2017.08.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

東根景佐(ひがしねかげより)

 生年不明~元和六年(1620) 本姓は里見氏。源右衛門。薩摩守を称す。妻の実家は小国日向家であるという。東根城1万2千石を領す。もとは東根城主の東根頼景(天童城主・天童頼澄の弟)の重臣であったが、最上義光に内応し、頼景に代わって城主となったという。その後は、最上家の上級城持家臣の一人として活躍した。
2017.08.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

一栗高春(ひとつくりたかはる)

 生年不明~慶長十九年(1614) 豊後守、のち兵部を称す。名は隆春とも。大崎家旧臣で玉造郡一栗城主を務めた。葛西・大崎一揆では、伊達政宗率いる鎮圧軍を相手に奮戦し、徹底抗戦を貫いた。戦後は出羽に落ち延びて最上義光に仕え、田川郡添川楯主、また鶴ケ岡城番を務めたという。義光が亡くなり最上家親が家督を継ぐと、これに異を唱え、鶴ケ岡城下の新関因幡守邸にて亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟と大山(尾浦)城主の下次右衛門を襲撃して殺害、添川楯に立て篭るも鎮圧され討死したという。
2017.07.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

原頼秀(はらよりひで)

 生年不明~没年不明 尾浦城主下家の家老。八左衛門。美濃守を称す。下本國の伯母婿(下秀久の姉妹の婿?)という。庄内川南地域の検地を行うなど、庄内支配の実務を担当した。下家が断絶したのちも鶴岡に留まり、庄内川南二郡の郡代を務めたとされる。
2017.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日向将監(ひむかいしょうげん?)

 天正十二年(1584)~寛永十七年(1640) 北館利長の甥。父は利長の兄である日向越中守。最上家改易により浪人となる。叔父の利長に酒井家への仕官の話があった際、利長は高齢を理由に辞退し、代わりに甥の将監を推挙したため、庄内藩酒井家に召し抱えられた。
2017.06.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野栄信(ひのしげのぶ?)

 生年不明~没年不明 日野光久の子。母は中山玄蕃の娘。十兵衛。休甫入道を称す。最上家改易により仙台藩伊達家家臣の片倉重長に仕えた。片倉家においては、家老の職を務めた。
2017.06.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野光久(ひのあきひさ)

 生年不明~没年不明 備中守を称す。山辺城主、のち塩ノ沢楯主(大石田町横山)か。庄内川南地域と由利郡の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。由利郡の検地では、5万4千8百石を調べ上げ「備中棹」の異名を取ったという。
2017.06.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

堀喜吽(ほりきうん)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死。この時、義光自身も兜に銃弾を受けた。
2017.05.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]