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加藤源右衛門(かとうげんえもん)
生年不明~慶長六年(1601) 慶長出羽合戦の庄内攻略戦において、里見義近とともに軍奉行に任じられた。酒田城を攻めた際、守りが堅く攻めあぐねていたため、諸将に先駆けて塀を乗り越えようとしたところを、鉄砲で眉間を打ち抜かれ戦死した。
2018.04.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
志村藤右衛門(しむらとうえもん)
生年不明~慶長五年(1600) 最上義光旗下・五十挺組の足軽大将として谷地城攻めに参陣する。慶長出羽合戦においても義光の旗本衆として、撤退する上杉軍を追撃するが、鉄砲隊の反撃を受け戦死した。
2018.04.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
金原七蔵(きんばらしちぞう)
天正十三年(1585)~没年不明 里見民部の小小姓。生年十六にして慶長出羽合戦に出陣。「最上記」によると、民部は剛力の足軽共を集め、七蔵に手柄を立てさせるよう言いつけ戦場に送り出した。その一団が上杉軍の大将・上泉主水泰綱と遭遇、漆山九郎兵衛が組みかかり、谷川へ転げ落ちたところに七蔵が飛びかかり、泰綱の首級をあげた。
2018.04.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
漆山九郎兵衛(うるしやまくろうひょうえ)
生年不明~没年不明 慶長出羽合戦において、上杉軍の大将・上泉主水泰綱に組みかかった剛の者。泰綱もろとも谷川に転げ落ち、途中で岩にぶつかって離れてしまったが、行動を共にしていた金原七蔵が泰綱を討ち取った。
2018.04.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
浦山筑後(うらやまちくご)
生年不明~没年不明 主君・最上義光から三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるよう命じられた。これに対し筑後は、雑兵の手にかかる前に姫君の御首を打ち、腹を切ってお供しようと決心を固めていた。このことを知った義光は、その忠義を惜しんで筑後を留めおき、下人の中から賢い者を選んで遣わしたという。
2018.04.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
浦野孫右衛門(うらのまごえもん)
生年不明~没年不明 最上義光配下の鉄砲衆。寒河江攻めの際、寒河江方の勇将・羽柴勘十郎を撃ち取るために選ばれた鉄砲の名手二十人のうちの一人。偽って退却した最上軍を追い突出した勘十郎を、伏兵にて待ち受けて狙撃し、致命傷を与えた。勘十郎の死により、寒河江方は戦意を喪失し、最上方の勝利となった。
2018.04.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
坂弥兵衛(さかやひょうえ)
生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の重臣。1千5百石を領したという。後世の軍記物である「最上記」によると、慶長出羽合戦の際、中山城から上山城攻略に向かった上杉軍の大将・本村造酒丞親盛を物見山の戦いにて討ち取ったという。これにより、上山城攻略の上杉軍別働隊は壊滅し、中山城へ撤退した。
2018.04.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
原田大膳(はらだだいぜん)
生年不明~没年不明 楯岡満茂の重臣。1千石を領したという。小野寺方の岩崎城(湯沢市岩崎)に夜襲を仕掛けて落城させ、岩崎城主となった。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2018.04.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]