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土肥道近(どいみちちか)

 生年不明~没年不明 秋田仙北の増田城(横手市増田町)の城主。はじめ小野寺家に仕える。文禄四年(1595)楯岡満茂が湯沢城(湯沢市古館山)を攻略した後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、西軍に加担した小野寺家を攻めるにあたり案内を務めたという。
2018.05.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

藤田丹波(ふじたたんば)

 生年不明~没年不明 越中土肥氏の家臣。守右衛門。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。最上義康襲撃に関わったとされる。最上家親による半左衛門の処断後も最上家に残る。最上家改易後は庄内藩酒井家に仕えた。
2018.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

栃屋半右衛門(とちやはんえもん)

 生年不明~没年不明 越中土肥氏の家臣。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れ、福井藩松平家に仕えた。
2018.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

西堀淡路守(にしぼりあわじのかみ)

 生年不明~没年不明 鶴ケ岡城番を勤め知行260石を領す。元は武田信玄の家臣とも。娘は有沢長俊に嫁ぐ。最上家改易後、子の十郎兵衛が庄内藩酒井家に150石で召し抱えられた。
2018.05.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

有沢長俊(ありさわながとし)

 生年不明~寛永八年(1631) 越中土肥氏の家臣。釆女を称す。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。下吉忠の配下として小国城(鶴岡市小国)を預かり650石を領す。最上家親により半左衛門が処断されたことから最上家を離れた。船で紀州に向かう途中、難破して能登に漂着し、加賀藩前田家に仕えることとなった。孫の有沢永貞は甲州流軍学を修め、加賀藩の軍学者となった。
2018.05.14:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

土肥半左衛門(どいはんざえもん)

 生年不明~元和二年(1616) 越中弓庄城の城主であった土肥政繁の子。姉婿が下吉忠であることから、慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、下家の一党として最上家に仕えた。最上義康襲撃事件の実行犯の一人とされる。下次右衛門が横死すると下家を取り仕切るようになるが、これを妬んだ同輩の原頼秀に、越中以来の譜代の家臣達を集め謀反の兆しありと讒訴されたという。これを真に受けた最上家親から寒河江への所替を命ぜられ、その途中の倉津(天童市蔵増)にて家親の手勢に襲撃され自刃した。これにより下長門守、有沢釆女などの下一族が最上家を退去した。
2018.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

浦山源左衛門(うらやまげんざえもん)

 天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり 最上義康の重臣。義康が父・最上義光から高野山への退去を命ぜられた際に同道していた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に襲われ源左衛門は討死、義康も撃たれて負傷し、自刃した。
2018.05.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

力丸所左衛門(りきまるしょざえもん)

 生年不明~慶長十九年(1614) 上杉家重臣・志駄義秀の甥。「最上記」によると弟とも。慶長出羽合戦時に酒田東禅寺城を守っていた義秀が、最上方に降伏し上杉領に戻る際、志村光安に所左衛門を預けていったという。光安は所左衛門を重用し、死にあたっては子の志村光惟を支えるよう後事を託した。しかし、所左衛門が不在の際に光惟が横死してしまい、光安の墓前にて切腹したという。
2018.05.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(ら行)]