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谷柏直家(やがしわなおいえ)

 生年不明~没年不明 最上義光の小姓。のち谷柏楯(山形市谷柏)楯主4千石。相模守。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向かう。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿軍として戦っていた飯田が討ち取られたこと知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。
2017.05.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

加藤清次(かとうきよつぐ)

 生年不明~慶長五年(1600) 悪戸楯(山形市村木沢悪戸)楯主。伊達政宗の母・保春院(義姫)の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。また、畑谷城にて光清の自害を見届け、これを山形城の最上義光に報告したとも伝わる。
2017.05.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

江口光清(えぐちあききよ)

 生年不明~慶長五年(1600) 畑谷城(山辺町畑谷)城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。最上家家臣の中でも連歌の才に秀で、連歌会に何度も参加している。
2017.05.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

鳥海信道(とりのうみのぶみち)

 生年不明~慶長五年(1600) 最上義光夫人の侍女・花輪と恋仲になり、これに怒った義光から死罪を申し渡されるが、鮭延秀綱の取り成しにより事無きを得、晴れて夫婦となった。このことに恩義を感じていた信道は、慶長出羽合戦では秀綱のもとで出陣、秀綱の身を守り討死した。妻の花輪も夫の葬儀を済ませると自害したという。このことを聞いた義光は、自らを恥じ入り、二人を丁重に弔ったと伝わる。
2017.05.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

庭月広綱(にわつきひろつな)

 生年不明~慶安三年(1650) 佐々木氏(鮭延氏)の一族。理右衛門。庭月楯(鮭川村庭月)の楯主として1千石を領す。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。広綱は所領を安堵され、その後も最上家家臣となった秀綱に仕えた。
2017.05.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

岡野孝以(おかのたかもち?)

 生年不明~万治二年(1659) 九郎左衛門。主馬を称す。鮭延秀綱の娘婿。鮭延家の家老として400石を領した。鮭延越前守侍分限帳によると550石という。最上家改易後は、秀綱に従い古河藩土井家に仕えた。
2017.05.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上義綱(いのうえよしつな)

 生年不明~没年不明 井上綱知の子。父の死去により家督を継ぐ。最上家改易後は、伯父である鮭延秀綱に従い、古河藩土井家に仕えた。のちに土井利勝の推挙により、幕府直参として召し出されることとなったが、病没してしまい果たすことができなかったという。その子孫は町医師として加賀藩前田家に仕えた。
2017.05.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上綱知(いのうえつなとも)

 生年不明~慶長二十年(1615) 鮭延秀綱の弟。将監を称す。合海城主として1千石を領したという。また、一説には、秀綱が最上義光に攻められて降伏したのち、許されて元の所領を安堵されると、岩鼻館(戸沢村蔵岡字岩花)に綱知を配したという。合海とは川の合流場所のことをいい、合海城とは最上川と鮭川の合流場所に近い岩鼻館のことか。
2017.05.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]