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日野光久(ひのあきひさ)

 生年不明~没年不明 備中守を称す。山辺城主、のち塩ノ沢楯主(大石田町横山)か。庄内川南地域と由利郡の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。由利郡の検地では、5万4千8百石を調べ上げ「備中棹」の異名を取ったという。
2017.06.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

川熊壱岐守(かわくまいきのかみ)

 生年不明~没年不明 大崎家旧臣。大崎家改易後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、小国大膳、谷地森伯耆守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。
2017.06.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

谷地森長元(やちもりながもと)

 生年不明~没年不明 谷地森貞元の子。藤右衛門。父と同じく最上家に仕えたが、最上家改易により会津加藤家に仕えた。その後、子の重一の代に加藤家が自ら封土を返上したため浪人となったが、仙台藩伊達家に仕えることができた。
2017.06.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

谷地森貞元(やちもりさだもと)

 生年不明~没年不明 伯耆守を称す。大崎家旧臣。大崎家改易後に最上家に仕えた。慶長出羽合戦では、小国大膳、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に援軍として入ったという。
2017.06.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

佐藤憲茂(さとうのりしげ)

 生年不明~慶長五年(1600) 理兵衛。樋幡城(山辺町要害)の城主。豊後守を称す。慶長出羽合戦の長谷堂城八幡崎口攻防戦にて戦死。佐藤理兵衛家は西行法師=佐藤義清(さとうのりきよ、憲清とも記される)の親類となる家柄であり、西行が出羽にやってきた際、この佐藤家にしばらく滞在していたとの記録が残っている。
2017.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

草刈虎之助(くさかりとらのすけ)

 生年不明~天正十六年(1588) 天童衆か。中山朝正らとともに庄内地方統治のため派遣される。十五里ヶ原の戦いでは本庄繁長率いる上杉軍を迎え撃った。東禅寺氏永が戦死し、敗色濃厚となるなか、一歩も退かずに奮戦したという。最上勢がことごとく討たれると、最期は千安川べりにて自害した。その地には草岡八幡が建てられ、虎之助が祀られている。
2017.05.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

草刈虎正(くさかりとらまさ)

 生年不明~慶長五年(1600) 志摩守を称す。天童衆。草刈虎之助の子か。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城に攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け戦死した(広河原の戦い)。
2017.05.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]

里見主水(さとみもんど)

 生年不明~没年不明 上山城主・里見民部の弟。慶長出羽合戦の際、上山方面に押し寄せた上杉軍を兄・民部らとともに奇襲し撃退した。後世の軍記物である「最上記」には2千石を領した里見永水という名が記されており、主水のことではないかと思われる。
2017.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]