HOME > 記事一覧

山家河内守(やんべかわちのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 山家城(山形市山家)の城主か。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。義姫が伊達家に嫁ぐ際に随行し、伊達家家臣となった山家清左衛門公俊も河内守を称したと伝わるが、関係は不明。
2017.08.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

落合伯耆守(おちあいほうきのかみ)

 生年不明~没年不明 落合楯(山形市落合)の楯主。山形城北面の防衛に当たったという。山形市長町の熊野神社を厚く信奉していたと伝わる。
2017.08.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

長岡番内(ながおかばんない)

 生年不明~没年不明 長岡但馬守の子。伴内とも。2百石を領す。最上家改易後は、庄内藩酒井家に150石で仕えた。のちに酒井家を辞し、山形に戻って帰農したとも伝わる。
2017.08.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

長岡但馬守(ながおかたじまのかみ)

 生年不明~慶長十九年(1614) 現在の山形市長町に館を構え、山形城北面の防衛に当たったという。最上義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

寒河江親清(さがえちかきよ)

 天正十六年(1588)~寛永十九年(1642) 草刈薩摩守(草刈志摩守?)の二男。男子の無かった寒河江元茂の婿養子となる。初め織部と称し、のちに十兵衛を称した。鶴ケ岡城の詰番を務めた。最上家改易後は、会津藩蒲生家、続いて会津藩加藤家に仕えた。
2017.08.21:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江元茂(さがえもとしげ)

 永禄三年(1560)~慶長十九年(1614) 十兵衛。260石を領す。ある時、主君・最上義光の近習と争いごとを起こし、家老達から切腹を申し渡されてしまう。しかし、義光の温情により切腹を免れ、暇を出されて仙台で暮らすこととなった。その後も義光は元茂を気遣い、金子を送って生活を助けていたという。義光が文禄の役に出陣すると聞くや、そのあとを追いかけ御供を願い出て、帰参を許された。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江親俊(さがえちかとし)

 生年不明~没年不明 寒河江廣秋の子。寒河江廣俊の弟。監物を称す。義光分限帳では150石、義俊分限帳では60石を領したとの記録が残る。最上家改易後、子の甚右衛門信安は、福岡藩黒田家に仕え島原の乱にて奮戦した。のちに福井藩松平家に仕えて6百石を領した。
2017.08.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

寒河江俊長(さがえとしなが)

 生年不明~没年不明 寒河江廣俊の子。新次郎。父・廣俊が最上義光の墓前にて殉死したため、その跡を継いだ。山形城の西側の一画に広大な屋敷地を持っていた。最上家改易後の動向は不明だが、寛文二年(1662)になって、子の惣右衛門俊重が福井藩松平家に仕えた。
2017.08.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]