天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり
最上義康の重臣。義康が父・最上義光から高野山への退去を命ぜられた際に同道していた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に襲われ源左衛門は討死、義康も撃たれて負傷し、自刃した。