永禄十一年(1568)~元和八年(1622)
筑後守を称す。慶長出羽合戦の際は上杉家に仕えており、古口楯や庭月楯を攻め落としたが、関ヶ原における西軍敗北により撤退、酒田城に立て篭って最上軍と戦った。親しかった下対馬守の仲裁により城を明け渡し、下家の治める尾浦城に身を寄せた。その後、最上家の直臣となり、亀ケ崎城主の志村光惟が死去すると、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。のちに里見民部が叛いた際に討手を命ぜられ、その功により褒美を賜ったという。
永禄十一年(1568)~元和八年(1622)
筑後守を称す。慶長出羽合戦の際は上杉家に仕えており、古口楯や庭月楯を攻め落としたが、関ヶ原における西軍敗北により撤退、酒田城に立て篭って最上軍と戦った。親しかった下対馬守の仲裁により城を明け渡し、下家の治める尾浦城に身を寄せた。その後、最上家の直臣となり、亀ケ崎城主の志村光惟が死去すると、亀ケ崎城代・川北三奉行の一人として庄内川北地域を治めた。のちに里見民部が叛いた際に討手を命ぜられ、その功により褒美を賜ったという。