斎藤光則(さいとうあきのり)

 生年不明~没年不明

 谷地城主4千石、のち高擶城主5千5百石となる。伊予守を称す。「太閤より御預け」の記録があり、他家から最上家に身柄を預けられ、のちに家臣として召し抱えられた可能性もある。最上川舟運の発展のため、川の難所を開削する工事の責任者を務め、他国から大勢の石工を呼び寄せ工事を完成させた。このほか新田開発や田畑の検地など内政面で最上義光に重用され、優れた業績を残した。義光の嫡男・最上義康が暗殺された際、義光は光則にこの事件の真相究明を命じたという。

2017.06.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]