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大田外記(おおたげき)

 生年不明~没年不明 井出館(大石田町大石田)の館主。天正十三年(1585)最上義光に攻め滅ぼされたと伝わるが、最上家の家臣になったとも。山野辺光茂が山野辺城主となった際に家老として仕えたという。子孫は水戸藩徳川家の家老となった光茂に仕え、大石田姓を名乗った。
2018.06.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

遠山外記(とおやまげき)

 生年不明~没年不明 最上義光により天童城が落城すると、天童八楯の一員であった長瀞氏に代わって長瀞城(東根市長瀞)に派遣され、郡代を務めたいう。天正年間、野辺沢城主・野辺沢満延の家臣であり、尾花沢郡代の荒楯十郎と争い、十郎の居城・荒楯(尾花沢市尾花沢荒楯)を攻め落とすが、逆に満延に攻められ滅亡したという。
2018.06.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

荒楯十郎(あらだてじゅうろう)

 生年不明~没年不明 野辺沢城主・野辺沢満延の家臣。荒楯(尾花沢市尾花沢荒楯)の楯主。尾花沢郡代を務めた。天正年間、長瀞城(東根市長瀞)の遠山外記に攻められ滅亡したという。尾花沢の荒楯不動尊には、十郎の守り本尊であった不動明王が奉られており、合格の神様として参詣者が多い。
2018.06.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子大和守(いらごやまとのかみ)

 生年不明~文禄四年(1595)? 小野寺家から庄内攻略を祝して名馬が贈られた際、その答礼に派遣されるなど、小野寺家への使者をたびたび務めたという。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市古館山)を攻略したのち、関口城(湯沢市関口)に入城したと伝わる。小野寺家と戦った大島原の合戦にて戦死か。
2018.06.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上牛之介(いのうえうしのすけ)

 生年不明~没年不明 下次右衛門の家来。慶長出羽合戦ののち、次右衛門とともに最上家に仕え1千石を領す。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2018.06.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

山家師時(やんべもろとき)

 生年不明~没年不明 山家城(山形市上山家町)城主・山家師兼の弟という。天童落城後も天童北部の情勢が不穏だったため、師時を派遣して監視にあたらせたという。小山家城(天童市山元)を築いた。師時の妻は、増田城(横手市増田町)城主・土肥道近の姉であったことから、慶長五年(1600)に土肥氏を頼って増田に移住し、のちに土肥家が断絶すると帰農して安倍姓を名乗ったという。
2018.05.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]

小野寺八之丞(おのでらはちのじょう)

 生年不明~寛文三年(1663) 仙北小野寺氏の一族・小野寺茂道の三男。関ヶ原の戦い後に小野寺家が改易となると、父・茂道とともに西馬音内城を退去し、庄内に住んだ。のちに姉婿である土肥半左衛門を頼って最上家に仕えるが、半左衛門が上意にて切腹、八之丞も知行召し上げとなる。最上家改易後に新庄藩戸澤家に仕えた。
2018.05.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

土肥半左衛門(どいはんざえもん)

 生年不明~没年不明 土肥道近の子。父に従い最上家に仕える。最上義康襲撃事件の実行犯とされる土肥半左衛門(越中土肥氏)とは別人。のちに讒言のため君命により切腹したという。一説には、最上家親が弟の清水義親を討とうとしていることを内通して義親を清水城に逃がしたといい、清水城が落城した際に義親と共に命を落としたという。
2018.05.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]