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里見親宗(さとみちかむね)
文禄三年(1594)~延宝六年(1678) 四郎左衛門。里見義親の子。父と同じく最上家親に仕えた。最上家改易後、福岡藩黒田家に仕えていたが、寛永年間になって山野辺義忠に招かれ、水戸藩徳川家に3百石で仕えた。
2018.03.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
里見義親(さとみよしちか)
生年不明~没年不明 掃部を称す。最上義光・最上家親の二代に仕えた。義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。
2018.02.27:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
牛房野三七(ごぼうのさんしち)
生年不明~没年不明 午房野楯(尾花沢市午房野)の楯主。後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。最上義光が小国郷の細川氏を攻めた際、最上勢の道案内を務めたと伝えられる。
2018.02.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
横田氏信(よこたうじのぶ)
生年不明~没年不明 大学を称す。蘆名家重臣・山内舜通の二男。山内一族の中でも第一の器用の人であり、文武二道の達人と評されていたという。舜通は、嫡男の氏勝を差し置いて氏信に家督を継がせようとしたため争いが起こる。兄・氏勝は身を引こうとするが、この事態に心を痛めた氏信は、自ら会津を出、越後を経て、徳川家康の家臣となった。その後、摺上原の戦いにて蘆名家が滅亡、山内家も危機に陥ると、氏勝救援のため会津に赴き、家康の口添えにより越後上杉家の助力も得て所領を守りきった。奥州仕置後は、氏勝とともに上杉家に仕え、後に最上家に仕えた。義光分限帳によると1千石、最上記によると2千石を領したという。一説には、最上家親が江戸城詰の頃からの子飼いの士であるといい、家親亡き後は松根光広に仕え、幕府に直訴のため出府した際には、その護衛役を務めたという。最上家改易後は、紀州藩徳川家・徳川頼宣に仕えたという。
2018.02.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]
小幡昌高(おばたまさたか)
生年不明~没年不明 播磨守を称す。武田家から北条家、次いで上杉家に仕える。慶長出羽合戦では直江兼続の陣におり、関ヶ原での西軍敗走の報が届いた際にその場に居合わせたという。のちに最上家に仕え、1千石を領した。
2018.02.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
日野数馬(ひのかずま)
生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。同じく1千石を領したという日野備中守光久の一族か。最上家改易後は、山形藩鳥居家に百五十石で仕えたという。
2018.02.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]
中山光信(なかやまあきのぶ)
生年不明~寛永十八年(1641) 中山玄蕃朝正の子。七左衛門。父とは別に千石を給されており、家督を継いだのちは最上家重臣に列した。最上家改易後は、武功の名あるをもって幕府に召し出され、福山藩阿部家に仕えて家老の職を務めた。
2018.02.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]
伊良子監物(いらごけんもつ)
生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると、庄内大山(尾浦)城主である大山内膳正(最上義光六男の光隆)の家臣として1千石を領したという。名は貞之助か。子は長崎で西洋医学を学び外科医となった伊良子道牛か。
2018.02.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]