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前森近江守(まえもりおうみのかみ)
生年不明~没年不明 楯岡満茂の重臣。1千5百石を領したという。東禅寺氏永(前森蔵人)の一族か。満茂に従い湯沢城(湯沢市)に入り小野寺氏と対峙した。
2018.04.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(ま行)]
小泉讃岐守(こいずみさぬきのかみ)
生年不明~没年不明 楯岡満茂の重臣。3千石を領したという。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2018.03.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
本間出雲守(ほんまいずものかみ)
生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。慶長十年(1605)に山形市の山寺(立石寺)の姥堂を修理したと伝わる。また、山寺地区の伊澤家には本間出雲守が所有した算盤が伝わっているという。
2018.03.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]
石垣河内守(いしがきかわちのかみ)
生年不明~没年不明 宮田楯(遊佐町宮田)の楯主。もとは板垣河内守と名乗っていた。大宝寺家を支持し最上家とは敵対していたが、慶長出羽合戦後に庄内地方が最上領となると最上家に仕えた。最上記によると1千石を領した。最上家改易後、替わって庄内に入部してきた酒井家に仕官しようとしたが果たせず、浪人となり帰農したという。
2018.03.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
鈴木治右衛門(すずきじえもん)
生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。最上家改易により山形を去ったのちも、近江最上家に仕えた。
2018.03.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
羽島茂兵衛(はしまもひょうえ)
生年不明~寛永九年(1632) 高橋但馬守の子。高橋勘解由とは腹違いの兄弟。継母との折り合いが悪く、若いときに父の家を出奔したという。最上家改易後、福井藩松平家に仕えた。
2018.03.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]
高橋勘解由(たかはしかげゆ)
生年不明~没年不明 高橋但馬守の子。最上家改易後、新庄藩戸澤家に仕え、谷地の代官を務めた。妻は最上家家臣の草刈虎之助の娘。
2018.03.12:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]
高橋但馬守(たかはしたじまのかみ)
生年不明~没年不明 義光分限帳によると1千石を領した。後世の軍記物である「最上記」にも1千石を領したとの記載が残る。もとは越前の朝倉氏に仕え、その滅亡後に最上家に仕えたという。一説には、高橋但馬守の娘が最上義光の嫡男・最上義康に嫁いだといわれている。生まれた子のうち、二男が義康の死後も生き延びて高橋姓を名乗り、後に帰農したという。
2018.03.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]