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鮎貝覺左衛門(あゆかいかくざえもん)
生年不明~万治三年(1660) 鮎貝宗信の子。妻は中山朝正の娘。父と同じく最上義光四男・山野辺光茂に仕え、最上家改易後も光茂に従っていたという。のちに光茂の仲介により水戸藩徳川家に直参として百石で仕えた。
2018.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
鮎貝宗信(あゆかいむねのぶ)
生年不明~没年不明 藤太郎。忠宗とも。伊達家家臣として鮎貝城(白鷹町鮎貝)三万五千石を領していた。伊達政宗に叛旗をひるがえすも最上家からの援軍を得られず、最上義光を頼って落ち延びたという。のちに義光四男・山野辺光茂に仕えた。鮎貝家は謀反騒動ののち宗信の弟が家督を継ぎ、引き続き伊達家に仕えた。
2018.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
齋藤忠頼(さいとうただより)
生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の孫と伝わる。大叔父である齋藤伯耆守の跡を継ぎ、山野辺家の城代家老を務める。最上家改易に際しては主君・山野辺光茂(義忠)に従い、のちに水戸藩徳川家に移った。
2018.07.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
齋藤伯耆守(さいとうほうきのかみ)
生年不明~没年不明 白鳥十郎長久の弟と伝わる。地元の伝承では、長久が最上義光に討たれた際に、名字を長久の奥方の名字である齋藤に変えたという。文禄年間に義光の四男・山野辺光茂(義忠)に仕え、城代家老となった。
2018.07.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
岩屋朝繁(いわやともしげ)
生年不明~正保三年(1646) 由利十二頭の一人、岩屋朝盛の子。岩屋楯(由利本荘市岩谷町)の楯主。能登守を称す。名は光繁とも。関ヶ原の戦いにおいて石田三成に通じたとして改易されるが、誤りであることが判明、最上義光の旗下として岩屋楯主に復帰する。最上家改易に伴い所領を没収され、秋田家を頼って常陸に赴いた。
2018.07.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
土屋作之亟(つちやさくのじょう)
生年不明~没年不明 野辺沢城主・野辺沢康満(光昌)に仕える。当時繁栄を誇った野辺沢銀山の山師頭。最上家改易後も山師頭を務めた。のちに銀山が廃山となったため、子孫は大石田に移転し商人として栄えた。
2018.06.27:mogapro:[▼最上家関連人物]
鈴木光弘(すずきあきひろ)
生年不明~没年不明 備後守を称す。漆山楯(山形市漆山)の楯主。千五百石を領す。義光分限帳では千石、義俊分限帳では5百石という。山形藩三代藩主・最上家信(義俊)に家老として仕えたとも。最上家改易後は、仙台藩伊達家に仕えた。
2018.06.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
池田盛周(いけだもりちか)
生年不明~没年不明 出羽池田家16代当主。朝日山城(酒田市生石)城主。讃岐守を称す。はじめ大宝寺氏に仕える。のちに最上方に転じ、十五里ヶ原の戦いでは、本庄繁長率いる上杉・大宝寺連合軍と戦い、朝日山城に籠って抵抗するも降伏、所領を安堵された。天正十八年(1590)に出羽庄内で検地が行われると、これに反対した地侍らの一揆に加勢したが、鎮圧軍に敗れて鮭延城主・鮭延秀綱を頼って落ち延びた。この時、自らを天下に逆らった悪人であるとして悪次郎と名乗ったという。慶長出羽合戦では、再び朝日山城に籠って上杉方と戦い、庄内地方が最上家の領地となると旧領荒瀬郷の内古川村を賜った。
2018.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]