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楯岡満信(たておかみつのぶ)
生年不明~没年不明 楯岡満茂の嫡男という。播磨守を称す。のちに満茂は、甥の親茂を跡継ぎとすべく養子に迎えていることから、若くして亡くなったものと思われる。満信のほか満茂の子は、大山筑前守光因妻・香林院、大山内膳正光隆妻・於陳女郎、楯岡親茂妻・源高院の3姉妹である。
2017.03.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]
楯岡満茂(たておかみつしげ)
弘治二年(1556)~寛永十六年(1639) 楯岡城主。豊前守。文禄四年(1595)雄勝郡に出陣し、湯沢城(湯沢市古館山)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本城城(由利本荘市尾崎)を築城、本城氏を称して、最上家中で最高の4万5千石を領した。
2017.03.16:mogapro:[ ☆最上四天王 ]
中野義清(なかのよしきよ)
生年不明~没年不明 中野義建の子。中野城主。最上家10代当主・最上義守の実父。大永元年(1521)に天童・成生両氏から攻撃を受け灰燼に帰した、山寺立石寺の再興に努めた。
2017.03.12:mogapro:[ ○最上家一門 ]
中野義建(なかのよしたつ)
生年不明~没年不明 最上家8代当主・最上義淳の二男。中野城主。最上家7代当主・最上満氏は中野家の出身であったことから、その子・義淳は、最上家と中野家の当主を兼ねており、嫡男の義定には最上家を、弟の義建には中野家を継がせた。
2017.03.07:mogapro:[ ○最上家一門 ]
多田義賢(ただよしかた)
生年不明~没年不明 楯岡光直の子ともいうが詳細は不明。楯岡義賢とも。楯岡城(村山市楯岡)の最後の城主。楯岡城址の麓にある愛宕神社入口に「楯岡城主多田義賢の碑」が残る。
2017.03.03:mogapro:[ ○最上家一門 ]
松根光広(まつねあきひろ)
天正十七年(1589)~寛文十二年(1672) 長瀞義保の子。備前守。白岩光広。白岩行広とも。数え3歳で父を亡くしたため、最上義光が息子同様にして育てたという。白岩備前守広教の養子となり、白岩氏を継いで白岩城主となった。元和元年(1615)松根城(鶴岡市松根)を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を柳川藩立花家へ配流する処分を下した。
2017.02.28:mogapro:[ ○最上家一門 ]
楯岡光直(たておかあきなお)
永禄二年(1559)or永禄八年(1565)~寛永六年(1629) 最上義守の三男。甲斐守。楯岡城主1万6千石。兄・最上義光を慕っていたようで、山寺立石寺に奉納した義光の健康を祈る願文を刻んだ鰐口が現存している。慶長五年(1600)の慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦い、その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。山形藩二代藩主・最上家親が死去すると、三代藩主の最上家信に代えて、義光四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し、改易された。改易後は小倉藩細川家に預けられた。
2017.02.27:mogapro:[ ○弟・妹 ]
長瀞義保(ながとろよしやす)
生年不明~天正十九年(1591) 最上義守の二男。新八郎。天童氏が滅亡した後、天童氏を盟主とする国人領主連合「天童八楯」の一員であった長瀞氏を継いだといわれている。天正十九年(1591)に戦死したという。庄内松根の佐藤家の娘で松ヶ枝という女性が妻であると伝わっている。息子が1人おり、のちの松根光広である。
2017.02.25:mogapro:[ ○弟・妹 ]