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山本大膳(やまもとだいぜん)
生年不明~没年不明 小野寺刑部や辻加賀とともに上杉家に仕え、慶長出羽合戦ののちに上杉家を離れ最上家に仕えた。最上家改易後は、最上家仕置のため公儀から派遣された永井右近直勝に召し抱えられた。
2019.01.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]
佐竹正勝(さたけまさかつ)
生年不明~寛永十三年(1636) 金山城主・丹政直の二男。太郎左衛門。母は進藤勘解由左衛門の娘。父の隠居料二百石を継ぎ、近習を務めた。最上家改易後は津軽に移住し、のちに弘前藩津軽家に百石で仕え、名字を進藤に改めた。孫の進藤庄兵衛正次は、弘前藩津軽家家老を務めた。
2019.01.11:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
川俣貞次(かわまたさだつぐ)
生年不明~没年不明 主膳正を称す。武蔵国川俣城の城主であったが、天正十一年(1583)家臣の裏切りにより川俣城が落城、姻戚を頼って最上家に仕えた。慶長出羽合戦後は、庄内尾浦城主・下次右衛門の奉行として尾浦に居住した。千三百石を賜っていたという。最上家改易後は庄内藩酒井家に仕えた。
2019.01.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
東海林成盛(しょうじなりもり)
生年不明~没年不明 谷地城主・白鳥十郎の重臣。隼人助。名は昌種とも。沼平楯(西川町岩根沢)の楯主。白鳥滅亡の際、白鳥十郎の息女・日吉姫をかくまったが、最上軍の攻撃を受け降伏した。その後は最上家に帰属し、慶長出羽合戦にも参戦、庄内にて奮戦したという。子は昌勝、孫は豊後光勝。
2019.01.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]
辻吉助(つじよしすけ)
生年不明~没年不明 加賀を称す。武蔵国の生まれ。北条家に仕えて数々の戦功を挙げ、下野足利の戦においては、北条氏直から感状を賜った。その後上杉家に仕え、慶長出羽合戦ののち最上家に仕えた。最上家改易後は、庄内藩酒井家に登用され、同じく最上家旧臣から召し抱えられた五十三騎の筆頭とされた。
2019.01.08:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]
笠原隆元(かさはらたかもと)
生年不明~没年不明 笠原隆親の子。葛西・大崎一揆では、父と共に宮崎城に立て篭もるも、奮戦及ばず城を落ち延びた。のち出羽楯岡に来て、父・隆親は、楯岡城主・楯岡満茂に召し抱えられたが、隆元は、名を宮崎太郎左衛門に改めて楯岡に土着し、楯岡笠原氏の祖になったという。
2019.01.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
笠原隆親(かさはらたかちか)
生年不明~没年不明 民部少輔を称す。大崎家旧臣で加美郡宮崎城主を務めた。妻は小国光基の娘。葛西・大崎一揆では、伊達政宗率いる鎮圧軍を相手に宮崎城に立て篭もるも、奮戦及ばず城を落ち延びた。岳父・小国光基を頼ろうとしたが、迷惑がかかるとして出羽仙北地方に逃れたという。のち出羽楯岡に来て、楯岡城主・楯岡満茂に召し抱えられ、名を笠原織部と改めた。
2019.01.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(か行)]
高橋英国(たかはしひでくに)
生年不明~没年不明 弾之助。鮭延秀綱の家臣。最上義光が野辺沢満延の勇力を試すために選んだ大力の持ち主七人のうちの筆頭。身の丈七尺の大男。そのため身に合う武具が無く、いつも素肌のままで戦っていた。太っていたこともあり裸豕之助(はだかぶたのすけ)と呼ばれていたのを、義光が「武太之助」に改めさせたという。のちに鮭延家を離れて浪人となり、雄勝郡寺沢の土民たちに助力を請われた戦にて討死したという。
2018.07.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]