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滝沢惟次(たきざわただつぐ)

 生年不明~没年不明 滝沢政範の長男。信濃守を称す。初め主膳を名乗り、最上家改易後に五郎兵衛に改めた。最上時代のころから父の元を離れて本城満茂に仕えていた。最上家改易後も満茂と行動を同じくし、前橋藩酒井家に仕えた。
2017.12.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

滝沢政範(たきざわまさのり)

 生年不明~寛永四年(1627) 滝沢政道の弟。兄の死後、その遺領を継いで滝沢城主となり、1万石を領す。兵庫頭を称す。最上家改易により浪人となり、のちに仁賀保家から五十石の扶助を受けたというが、寛永四年に自害した。
2017.12.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

滝沢政道(たきざわまさみち)

 生年不明~慶長十四年(1609) 滝沢氏は由利十二頭の一つ。政道の祖父・政家が矢島(大井)氏に攻められ討死、以降は最上氏を頼った。刑部(兵部)少輔を称す。慶長出羽合戦において軍功をあげ、旧領である由利に1万石を与えられた。家老職を務め、滝沢城(由利本荘市前郷)を築城。慶長十四年正月、黒沢の地において年頭御礼にきた家臣に殺されたという。
2017.12.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(た行)]

関三郎兵衛(せきさぶろうひょうえ)

 生年不明~慶長五年(1600) 慶長出羽合戦に際し、鳥屋ヶ森城(朝日町新宿)を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、上杉軍の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城。討死したと伝わる。
2017.12.07:mogapro:[ ◇最上家家臣団(さ行)]

小栗正吉(おぐりまさよし)

 生年不明~没年不明 頼母介。義光分限帳によると2千5百石を領していた。一説には、鳥屋ヶ森城(朝日町新宿)の城主であったとも伝わる。最上家改易後は、府中藩徳川家(徳川忠長家)に仕えたといわれている。
2017.12.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

宝幢寺尊海(ほうどうじそんかい)

 生年不明~没年不明 山形にあった宝幢寺の住職。尊海上人、宝幢御坊とも。最上義光が出陣する際には、尊海が戦勝祈願を行うのが慣例であった。天童城攻めの際、天童領との境を流れる立谷川が濁流となって行く手を阻んでいたのを、尊海が祈祷するとたちまちに水が引いたという話や、天童方が喜太郎狐の幻術を使って最上方を惑わしたのを、犬を使ってこれを打ち破ったという伝説が残る。天童城を攻め落としたのち、本丸跡に建てられた天童愛宕神社の別当に任じられ、1370石という広大な寺領を与えられた。
2017.11.27:mogapro:[▼最上家関連人物]

女三(にょさん?)

 生年不明~没年不明 最上義光に仕えた法師武者。慶長出羽合戦に際し、義光が築いたと伝わる古館城(山形市古館)の城主を務めたという。名は古館女三とも。後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。
2017.11.26:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

望月隼人正(もちづきはやとのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 慶長出羽合戦に際し、八ッ沼城(朝日町三中)を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、上杉軍の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城。自刃して果てたという。
2017.11.25:mogapro:[ ◇最上家家臣団(ま行)]