横田氏信(よこたうじのぶ)

 生年不明~没年不明

 大学を称す。蘆名家重臣・山内舜通の二男。山内一族の中でも第一の器用の人であり、文武二道の達人と評されていたという。舜通は、嫡男の氏勝を差し置いて氏信に家督を継がせようとしたため争いが起こる。兄・氏勝は身を引こうとするが、この事態に心を痛めた氏信は、自ら会津を出、越後を経て、徳川家康の家臣となった。その後、摺上原の戦いにて蘆名家が滅亡、山内家も危機に陥ると、氏勝救援のため会津に赴き、家康の口添えにより越後上杉家の助力も得て所領を守りきった。奥州仕置後は、氏勝とともに上杉家に仕え、後に最上家に仕えた。義光分限帳によると1千石、最上記によると2千石を領したという。一説には、最上家親が江戸城詰の頃からの子飼いの士であるといい、家親亡き後は松根光広に仕え、幕府に直訴のため出府した際には、その護衛役を務めたという。最上家改易後は、紀州藩徳川家・徳川頼宣に仕えたという。

2018.02.20:mogapro:[ ◇最上家家臣団(や行)]