天文十三年(1544)~天正十六年(1588)
名は義長とも。はじめ前森蔵人と名乗っていた。庄内地方を領有していた大宝寺義氏の妹婿であったが、義氏の度重なる外征に不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。このとき庄内の国人領主らはみな氏永に同調したという。大宝寺氏は義氏の弟・大宝寺義興(丸岡兵庫)が跡を継ぎ、上杉家重臣・本庄繁長の子を養子(大宝寺義勝)に迎えて上杉家との結びつきを強めた。天正十五年(1587)再び大宝寺氏と対立し、氏永は最上義光から援軍を得て義興を討った。しかし翌年、本庄繁長は実子の大宝寺義勝とともに庄内に侵攻、氏永はこれを迎え撃つが大敗、戦死した(十五里ヶ原の戦い)。