HOME >  ◇最上家家臣団(あ行)

飯田播磨守(いいだはりまのかみ)

 生年不明~慶長五年(1600) 名は信兼(のぶかね)か。天童八楯のひとつで、飯田楯(村山市本飯田)を本拠地としていたが、移封となり、新たに飯田楯(山形市飯田)を築いたという。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
2017.05.16:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

江口光清(えぐちあききよ)

 生年不明~慶長五年(1600) 畑谷城(山辺町畑谷)城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。最上家家臣の中でも連歌の才に秀で、連歌会に何度も参加している。
2017.05.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

岡野孝以(おかのたかもち?)

 生年不明~万治二年(1659) 九郎左衛門。主馬を称す。鮭延秀綱の娘婿。鮭延家の家老として400石を領した。鮭延越前守侍分限帳によると550石という。最上家改易後は、秀綱に従い古河藩土井家に仕えた。
2017.05.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上義綱(いのうえよしつな)

 生年不明~没年不明 井上綱知の子。父の死去により家督を継ぐ。最上家改易後は、伯父である鮭延秀綱に従い、古河藩土井家に仕えた。のちに土井利勝の推挙により、幕府直参として召し出されることとなったが、病没してしまい果たすことができなかったという。その子孫は町医師として加賀藩前田家に仕えた。
2017.05.02:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

井上綱知(いのうえつなとも)

 生年不明~慶長二十年(1615) 鮭延秀綱の弟。将監を称す。合海城主として1千石を領したという。また、一説には、秀綱が最上義光に攻められて降伏したのち、許されて元の所領を安堵されると、岩鼻館(戸沢村蔵岡字岩花)に綱知を配したという。合海とは川の合流場所のことをいい、合海城とは最上川と鮭川の合流場所に近い岩鼻館のことか。
2017.05.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

大風右衛門(おおかぜうえもん)

 生年不明~没年不明 最上義光から長谷堂城に援軍として派遣され、上杉軍の包囲を破って入城に成功する。横尾勘解由らとともに春日元忠の陣に夜襲を仕掛け、上杉勢が同士討ちを起こすほどの大混乱に陥れた。
2017.04.28:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

氏家親定(うじいえちかさだ)

 文禄四年(1595)~寛永十五年(1638) 記録に残る系図によると氏家(成沢)光氏の三男か。隠岐守。左近丞。尾張守を称した兄(名は不詳)が若くして亡くなったため氏家家を継いだとみられる。妻は最上義光の三女竹姫。兄に嫁いでいたという竹姫は親定に再嫁したものか。最上家改易後は萩藩毛利家に預けられた。
2017.04.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

氏家光房(うじいえあきふさ)

 生年不明~没年不明 相模守を称す。氏家定直や守棟の一族の者かと思われる。山形平清水の大日堂に諸願成就を感謝して鉄鉢を寄進している。この鉄鉢には慶長六年(1601)十一月二十八日の銘があり、山形市指定有形文化財になっている。
2017.04.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]