HOME >  ◇最上家家臣団(あ行)

浦野孫右衛門(うらのまごえもん)

 生年不明~没年不明 最上義光配下の鉄砲衆。寒河江攻めの際、寒河江方の勇将・羽柴勘十郎を撃ち取るために選ばれた鉄砲の名手二十人のうちの一人。偽って退却した最上軍を追い突出した勘十郎を、伏兵にて待ち受けて狙撃し、致命傷を与えた。勘十郎の死により、寒河江方は戦意を喪失し、最上方の勝利となった。
2018.04.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

石垣河内守(いしがきかわちのかみ)

 生年不明~没年不明 宮田楯(遊佐町宮田)の楯主。もとは板垣河内守と名乗っていた。大宝寺家を支持し最上家とは敵対していたが、慶長出羽合戦後に庄内地方が最上領となると最上家に仕えた。最上記によると1千石を領した。最上家改易後、替わって庄内に入部してきた酒井家に仕官しようとしたが果たせず、浪人となり帰農したという。
2018.03.17:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

小幡昌高(おばたまさたか)

 生年不明~没年不明 播磨守を称す。武田家から北条家、次いで上杉家に仕える。慶長出羽合戦では直江兼続の陣におり、関ヶ原での西軍敗走の報が届いた際にその場に居合わせたという。のちに最上家に仕え、1千石を領した。
2018.02.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子監物(いらごけんもつ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると、庄内大山(尾浦)城主である大山内膳正(最上義光六男の光隆)の家臣として1千石を領したという。名は貞之助か。子は長崎で西洋医学を学び外科医となった伊良子道牛か。
2018.02.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子弾正(いらごだんじょう)

 生年不明~没年不明 慶長出羽合戦の際、山形市西部の門伝楯の楯主を務め、楯の改修を行ったという。一説には新たに門伝楯を築いたとも。二人の娘がおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだと伝わる。最上家改易後も子孫は山形に残り、飯野の姓を名乗ったという。
2018.02.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子信濃守(いらごしなののかみ)

 生年不明~没年不明 朝鮮出兵に際し山形にて留守居役を務めた。最上義光は滞陣していた肥前名護屋から、伊良子信濃守あてに「命のうちにいま一度、最上の川地を踏み申したく候、水を一ぱい呑みたく候」と書いた書状を出した。
2018.01.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子長門守(いらごながとのかみ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。最上義光は山形城三の丸の十一口にそれぞれ重臣を配置して防衛を固めた。このうち、山形城北西の下条口に配されたのが伊良子長門守であるという。
2018.01.22:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

伊良子宗牛(いらごそうぎゅう)

 生年不明~没年不明 甲斐源氏の支流・秋山氏が三河国渥美郡伊良子村に移り住み伊良子を名乗ったという。最上記によると宗牛は柏木山合戦の際、成沢城防衛のため派遣され、武田信玄が日本国で剛の者として名の知られた武者を聞き出し、書き集めた枕屏風の4番目にその名があったという。
2018.01.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]