HOME > ◇最上家家臣団(あ行)
大崎義名(おおさきよしな)
生年不明~没年不明 大崎家12代当主・大崎義隆の二男。七兵衛。天正十八年(1590)の奥羽仕置により大崎家が改易処分を受けると、兄の大崎義成とともに伯父である最上義光に仕えて、三百石あるいは三百五十石を領した。最上家改易後は、盛岡藩南部家に仕えた。
2019.01.31:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
大崎義久(おおさきよしひさ)
生年不明~没年不明 大崎義成の子。源三郎。名は義正とも。大崎家改易後、父・義成が最上家に仕えたのちに生まれたという。父の跡を継いで、最上家に仕えた。最上家改易後は、盛岡藩南部家に仕えたが、慶安四年(1652)十二月になって禄を辞し、大崎家旧領である高清水に立ち退き、そこで亡くなったという。
2019.01.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
大崎義成(おおさきよしなり)
生年不明~没年不明 大崎家12代当主・大崎義隆の嫡男。左京亮を称す。天正十八年(1590)の奥羽仕置により大崎家が改易処分を受け、義隆は所領回復を願い出るも叶わず、蒲生氏郷に預けられた。義成は伯父である最上義光に仕えて、客分として千石百人扶持を領した。のちに剃髪して徳庵斎と号し、最上の地で生涯を終えた。
2019.01.29:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
鮎貝覺左衛門(あゆかいかくざえもん)
生年不明~万治三年(1660) 鮎貝宗信の子。妻は中山朝正の娘。父と同じく最上義光四男・山野辺光茂に仕え、最上家改易後も光茂に従っていたという。のちに光茂の仲介により水戸藩徳川家に直参として百石で仕えた。
2018.07.23:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
鮎貝宗信(あゆかいむねのぶ)
生年不明~没年不明 藤太郎。忠宗とも。伊達家家臣として鮎貝城(白鷹町鮎貝)三万五千石を領していた。伊達政宗に叛旗をひるがえすも最上家からの援軍を得られず、最上義光を頼って落ち延びたという。のちに義光四男・山野辺光茂に仕えた。鮎貝家は謀反騒動ののち宗信の弟が家督を継ぎ、引き続き伊達家に仕えた。
2018.07.15:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
岩屋朝繁(いわやともしげ)
生年不明~正保三年(1646) 由利十二頭の一人、岩屋朝盛の子。岩屋楯(由利本荘市岩谷町)の楯主。能登守を称す。名は光繁とも。関ヶ原の戦いにおいて石田三成に通じたとして改易されるが、誤りであることが判明、最上義光の旗下として岩屋楯主に復帰する。最上家改易に伴い所領を没収され、秋田家を頼って常陸に赴いた。
2018.07.01:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
池田盛周(いけだもりちか)
生年不明~没年不明 出羽池田家16代当主。朝日山城(酒田市生石)城主。讃岐守を称す。はじめ大宝寺氏に仕える。のちに最上方に転じ、十五里ヶ原の戦いでは、本庄繁長率いる上杉・大宝寺連合軍と戦い、朝日山城に籠って抵抗するも降伏、所領を安堵された。天正十八年(1590)に出羽庄内で検地が行われると、これに反対した地侍らの一揆に加勢したが、鎮圧軍に敗れて鮭延城主・鮭延秀綱を頼って落ち延びた。この時、自らを天下に逆らった悪人であるとして悪次郎と名乗ったという。慶長出羽合戦では、再び朝日山城に籠って上杉方と戦い、庄内地方が最上家の領地となると旧領荒瀬郷の内古川村を賜った。
2018.06.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]
大田外記(おおたげき)
生年不明~没年不明 井出館(大石田町大石田)の館主。天正十三年(1585)最上義光に攻め滅ぼされたと伝わるが、最上家の家臣になったとも。山野辺光茂が山野辺城主となった際に家老として仕えたという。子孫は水戸藩徳川家の家老となった光茂に仕え、大石田姓を名乗った。
2018.06.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]