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康寿橋と康寿桜

  • 康寿橋と康寿桜
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一昨日、山形の山形百名山登り、目当ての山でなくなって、もう一度次の休み17日に行くことになってしまって、一昨日、時間余って山形帰り道、赤湯温泉街少し散歩・・久しぶりですけども、我が長男と同じ字を書く”康寿橋”そして”康寿桜”見てきた・・これは”こうじゅ”と読みます・・これを名前で検索すると”やすひさ、こうじゅ、やすとし”と出てきます、我が子は”やすひさ”としたけど当時この名前は他にいないだろうと思ってました・・昭和の56年うまれネットなどない時代で、いろんな本で字画とか姓名判断で悩みながらつけた名前、今は名前検索で姓名判断まで出てくる・・なんでもネット検索で調べられる便利な世の中です・この橋”めがね橋”の愛称で親しまれている洋風石造アーチ橋、明治時代文明開化・・洋風技術の導入で多く作られたもの、我が生まれ故郷川西にも洋風の建物昔は結構ありました・・南陽市には『吉田橋』『石造大鳥居』を作った名石工、吉田善之助の弟子川合兄弟の作とあります。

2021.09.12:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

しゃぎり

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いつもなら毎年、8月26日に川西町小松の諏訪神社例大祭で”しゃぎり”が、27日に”豊年獅子踊り”28日に”神送り”が行われるのですが昨年に続いてコロナで中止となってます。今年西区の山車の補修修理してるので、8月22日(日曜日)上小松西区町内のお披露目巡行がありました、山形県下では珍しい民族芸能、京都に棟梁を派遣しての制作、西区、南区、北区と旧小松村でその隣村中区新山神社でも行っていたが昭和の時代に中区はなくなってしまっている、西区の”しゃぎり”補修を行ってもう江戸時代の部分が少し残すだけとなったようです、慶応元年1964年から続く・・22日は休みとってその”しゃぎり”の山車の寸法調査で巡行前のところを測ってきました、大まかな部分だけですが・・私の模型作りはそこそこの寸法で多少デフォルメして制作するのが好き、山車の寸法などは幼馴染が以前調査した資料があってコピー持って来てくれた・・幼馴染は子の他にも獅子頭、草木塔、月夜塔なんでも調べる歴史オタクでありいろんな調査メモが大学ノートにしたためられている、今回調査した資料と合わせて山車ミニチュア版製作しようと思ってる・・いつ完成するかですが・・完全リタイヤしてからのお楽しみとなる

2021.08.24:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

萩生城跡

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7月3日飯豊の街ウオークで飯豊町萩生にある城跡へ、萩生駅から15分ほどでした。城は主郭の方形館に、西側に出丸を拡張した複郭式平城となっている、主郭は南北145m、東西77m、周囲を幅10m程の水堀と幅10m、高さ3m程の土塁で囲い、南西隅の高所には物見櫓(推定)が、東側には虎口の大手門が設置され、出丸は南北147m、東西64m、主郭と同様に幅10~13mの水堀と高さ3mの土塁で囲われ、応永年間(1394~1428)に当時の当主国分光信が国分氏の祈願所として恩徳時を移している。国分氏は、天正19年の伊達氏の陸奥岩出山移封に伴って城は廃城になっている、萩生城の跡地は現在でも土塁や水堀などの遺構が残っていている、一部は民家が入っているが土塁は現存しているようです・・残った国分氏の子孫は地元の石材店を営んでいます、ちなみに街道からの城の入り口に趣のある旅館が・・いい感じの建物・・

2021.07.06:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

萩生石箱遺跡

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萩生の石箱遺跡、7月3日の飯豊街歩きウオークで最終ゆり園に寄って萩生駅に帰る道で立ち寄りました。ここは、昭和47年野川土地改良工事現場で小学生が縄文土器らしい破片を多数拾ったことから調査され、土器はじめ石器が多数出土、昭和49年町指定文化財、昭和61年遺跡保存会の手で住居が復元されている。今から4000年前紀元前2000年頃からの縄文中期、遺構として竪穴住居跡と炉跡が確認されている、老朽化のため2010年2棟あったものを1棟にして再復元されている、住居は直径7.8m高さ5m炉は長さ70㎝、幅40㎝の楕円凹炉がある、素焼き釜で炊飯体験とか記事がネット検索してたらでてましたね・・私は小学生の5年くらいから中学の1年までだったか?・・成島で拾った土器片そして矢じりから縄文期に興味をもって実家の川西から自転車で成島に行って土器ほり、畑の中を石器拾いしによく行ったもおでした・・基本一人で自転車でいきます、時期は雪解けを待って草が生える前に、たまに友達誘って・・そして一人で丘や丘陵地など遺跡として明確になってないとこに、もしかしたら拾えないかという場所を検討つけて行ったりした・・小学5年から6年にかけて・・中一の初めまででしたか?勝手に人の土地入ってようやったな・・成島は畑や畔なんか、かってに手スコップでかなり掘ってましたが、そういえば一度も怒られたことはなかった・・いまでは考えられないですね・・成島は土器の底が丸々と復元できる分出てきて、ボンドで張り付けて不足箇所は石膏で復元して、網代圧痕といって土器の底に敷いた編組の痕跡がはっきりと残っていて復元できるとうれしくて・・やがてその行為も冷めて、土器と石器は出身の小松小に寄付したけど今はどうなったんでしょうか・・

2021.07.05:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

資福寺跡

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粗大ゴミ出しに千代田クリーンセンターへと出かけた帰り、久しぶりに資福寺跡へ立ち寄る・・長井氏により創建されたのが弘安年間(1278-1287)とあり、二重に土塁をめぐらした、2百メートル四方の規模を持つ寺院で出羽における禅門の中心で多くの名僧を輩出したとある。その長井氏は伊達氏の置賜侵攻で1835年に滅亡、新しく支配した伊達氏も資福寺を長井氏と同様に帰依寺、学問寺として手厚く保護し、政宗は片倉小十郎とともに学問を学んだ寺となる。伊達家が仙台に移転した時、寺も移転、現在は紫陽花寺として有名なようです、・・この跡には堂跡と伊達家の墓が残っている・・何故墓は残ってるのか、不思議ですね・・お寺は天正19年(1591)岩出山、慶長5年(1600)に仙台谷地、寛永15年(1638)現在地に移動したとある・・仙台市青葉区にある資福寺あじさいの時期だと6月25日から7月10日頃とある、行こうと思います

2021.06.08:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]